和ジャズ総本舗 ー第2回ー 湯けむり廃盤ツアー |
カレンダー
カテゴリ
以前の記事
2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
クール・ジャズ
植草甚一
ウエスト・コースト・ジャズ
小雀俊二のレコード・コレクター珍士録
A&Mレーベル
クリード・テイラーを追悼する
ザ・ビーチボーイズのオランダ
ジャケ買い
ネオアコ
プレイボーイ入門
メイド・イン・ジャパン
リズ・オルトラーニ
ロココ・ジャズ
黒ビール
私はまだかって嫌いな人に逢ったことがない
庄司薫
深夜のジャズ・バーにふさわしいレコード
文章読本
北欧ジャズ
12インチ・シングル
淀川長治
アーバン・メロウ
アフロ・キューバン・ジャズ
イタリア・サントラ
エブリシング・バット・ザ・ガールズ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2017年 03月 20日
”ブラック・ナグ” 八城一夫トリオ tact 世界屈しでもあると思うレコード店密集地東京でのレコード・ハンティングはやめられないが、地方でのレコード・ハントもまたそれなりに楽しいものであると思っている。 2月から忙しい日々が続いている。週末、たまには、半ドンであがってもバチがあたらんだろう。 主要駅のコインロッカーに通勤鞄を預ける。両手が空いただけで、やたら自由を感じる。そして、10分後の新幹線の切符を買う。行先はレコード屋がある地方都市。そして、温泉、地酒、料理。 車内のニュース電光板には、上越方面は雪とのこと。レコード屋行って温泉つかるだけだから雪が降ろうがさして関係ない。 携帯をネットにつなげてレコード店を確認する。昔ながらの中古レコード店は減少したがレコードは日本の何処かでそれでもわずかに生き残っている。なんでも飲み込んでしまううわばみのごとくテクノロジーの最先端がどうしてか喉の奥で詰まらせている。 あとは今夜の宿だ。伝統的な旅館の風情を求めるが旅でもないので、駅前のビジネスホテルでいい。天然温泉付のホテルの部屋を予約する。 トンネルを抜けると雪国だった。その光景を目の当たりにして、やはりその言葉を呟かないではいられれない。 改札を抜けて予約したホテルを目指す。観光などしなくても、普段、目にしない地方都市のある雪の一日風情を肌で感じる。昔の浮世絵の雪のなんとか宿(じゅく)とかいうのを思い浮かべる。 チェックインを済ませ、さっそく露天風呂へと向かう。頭にタオルをのせ、ゆっくりとお湯に体を沈める。この瞬間、幸福を感じない日本人がいるとは思えない。つい、二時間前まで、ディスクに座っていたことが嘘のように感じる。 で、ネットで見つけたレコード屋を目指す。ホテルで傘を借りて歩きだすが、すぐに、靴下が湿ってくる。風邪をひいてはたまらないのでタクシーを拾う。タクシーに乗る理由はもうひとつ、ドライバーさんに美味しいお店を聞き出すこと。そういう情報は土地のタクシーのドライバーさんに聞くのが一番だと思っている。乗せたお客さんの口コミはもちろん、日常での外食、自身の舌。 だが、ドライバーさんは、そっけなかった。”この辺は何処で食べても美味しいんじゃないですかね。” で、地方で狙うべきレコードは分かっている。日本人のジャズだ。邦人ジャズ。 上手くすれば、帯付きの綺麗なものが手に入る。風土なのか気候なのか県民性なのか、ジャケットにシミひとつない綺麗なものが見つかる県もある。ジャケットが良ければ中身もまず間違いなしだ。日本人は盤に対しては実にデリケートに扱う。 そして、こういうレコードが見つかれば、思わずガッツポーズが出る。 前回からのつながりで言えば、八城さんは、”祭りの幻想”の作・編曲者である。この盤はジャズ・ロック的なアプローチで1969年の当時の雰囲気をモロに感じさせる。”ラブ・フォー・セール”などのジャズ・ロック的解釈は一部のジャズ・ファンの顔をしかめさせてしまうかも知れない。表題曲、”ブラック・ナグ”とはあばれ馬のことだそうだ。すなわち、競馬である。ジャズマンでいうところの飲む、打つ、買うの、打つである。そのあばれ馬に対しジョッキーとしての八木さんは、しなやかで柔らかなムチを入れ行く。この曲を聴いていると、賭けた馬に、ほれ飛ばせ、ほれ行け!と声を掛けるコミカルな競馬ファンの姿が浮かんでくる。まさに、喜劇駅前温泉、喜劇駅前競馬である。 しかしながら、そんな博徒な八木さんとは別にセンシブティな側面を見せるのが、ボサ・ナンバーのカロリーナ”CAROLINA”である。 この優雅さは、”ピアニストはまずタッチをよくせねばならぬ”という八木さんの持論を自でゆくものである。 さらには、アントニオ・カルロス・ジョビンのナンバーであるファーベラ”FAVELA”は最高のサンバ・ジャズである。 この時代、ボサノヴァって最先端の音楽であったことを思い出す。小学校の帰り道、住宅地のテレビからもそんな亜流音楽れていたような気がする。お昼の奥様劇場のそんなテーマソングと、どこからかインスタント・ラーメンの匂い。昼下がりのボサノヴァ。 そんな収穫を手にしたら、そのまま居酒屋に向かう。お洒落な外装な店はさける。安いが派手な看板、店も控える、グループのお客さんでいっぱいだ。小さなこじんまりとした店を選ぶ。一人客でも大事にしてくれるお店。白子を頼んで飲み始める。メインにのどぐろの焼き物をチョイス。しめに海鮮鍋。 始終、寡黙な大将であったが、最後はにっこり笑って、また来てください。 宿に帰ったら、日本盤だからして、ライナーがついている。それをそっと取り出してベッドの灯りで読む。 明日、朝は地元民と混じって駅の山菜そばを食べよう。そして、雰囲気のある喫茶店でもう一軒のレコード屋の開店時間を持つ。 あ~いいなあ。 だが、結局、仕事は休むことはなかった。これはすべて妄想である。もう春か。来年の冬こそそんな旅をしてみたい。 レコードは先週都内で買った’78年の再発盤である。 #
by senriyan
| 2017-03-20 20:53
|
Comments(4)
2017年 03月 12日
”SAKURA SAKURA” HIDIO SHIRAKI QUINTET +3 KOTO GIRLS MPS
もうじき桜が咲く。 夕暮れ帰宅中、自転車をこぎながら、あれ、こんなところにサクラの樹あったんだけかなという思いでみる桜は、花見のサクラなどよりもことのほか印象的に映える。貯水池のフエンス越し、ポツンと立つ街灯に照らされて。またそんな桜は胸をキュッとしめつけられるようなそんな奥深さを秘めている。 そんなこの時期に、前からほしかったこのレコードを手に入れた。 白木秀雄さんの”祭りの幻想”を聴いて感銘を受けたドイツのヨアヒム・ベーレントが1956年のベルリン・ジャズ・フェステヴァルに白木のグループを招いた際に、スタジオ録音されたものである。 なんと、日野皓正さんは21歳。 日本の和ジャズブームはつい先ほどの話しだったが、今ほど情報があふれていない時代、評価されるところではきちんと評価されていたのである。最初、ぼくも、このジャケットを見たとき、これではまるで、社長洋行記ではないかと、いかにもゲテモノだと早合点したものだったが、要は、何も分かっていなかったのだ。 白木さんは、神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子であるからして、この話しがあった時、”面白れぇ、ドイツ子に、日本のジャズというのをとっくりとお目にかけようじゃねえか”、そういったような気がする。 冒頭のさくらさくらは、3人の琴ガールズに白木さんのドラムのみが支える。 スリーガールズたちの琴は、ベルリンだろうが、ジャズ・フェステヴァルだろうが、極めて、伝統的である。ストイックである。媚びていない。そう、なまじっか、欧米になびいたりしたら、琴のお師匠さんに叱られるのである。 だが、白木さんのドラムが入ってくるところから、たったそれだけで、日本的なタテ乗りに横揺れが加わっていく、情緒に変化が訪れる。この瞬間はこのレコードの最初の聴きどころと思っている。 そして、やがて、相馬節、よさこい節、山中節と、聴き馴染みのある旋律が、海を越え、文化を越え、混じりあい、いつしかここにしかないジャズとなる。 ジャズというのは、人種、文化のコンフュージョンから生まれたこと、それそのものであることは、ぼくが言うまでもないことである。 コンフュージョン、折衷。これまた、日本は特有の折衷文化国である。 たとえば、ヨーロッパで文化が交わるような位置にある国、アジアが、中東が、ヨーロッパが隣り合わせという国なら分かる。そうした国ならば独自の折衷文化が生まれる。だが、なぜ、東のはずれの小さな島国である我が国はこうもよその国の文化が気になるのだろうか? クリスマスを祝い、正月を祝い、節分の恵方巻きを食べ、バレンタインデーに一喜一憂し、義理チョコを配り、お盆に里帰りし、ハロウィンナイトに浮かれる。 風を読む、空気を読むとも、そんな力はどこの国よりたけているのではないか? ここまで書いてきて、なんら、大したこと言ってない自分に気付く。 ただ、夕暮れ帰宅中、自転車をこぎながら、ふと、見てしまった桜。見入ってしまった桜。何かそこには、ある刹那的な感覚がある。 日本人のブルースの根っこはきっとここにあるものだろう。 それは、トランぺッターのハワード・マギーの音や、レッド・ミッチエルの弦からはじき出される音と同じものを感じる。 このレコードは個人的には、邦人ジャズのベストに入るものであると信じている。 #
by senriyan
| 2017-03-12 16:34
|
Comments(0)
2017年 02月 27日
JIMMY GIUFFRE 3 ”trav'lin' light" ATLANTIC 1282
深夜、帰宅して、それでもレコードを聴きたいと思う愚か者である。 だが、こんな時には、ハードバップなんてのはいけない。で、音量をしぼって、このレコードをプレイヤーにのせる。 このレコードの良さが、長い間、よく分からなかった。いや、本当は今でもよくわかっていないのかも知れないが。 管楽器二人に、ギター奏者が一人。静かに淡々とその音を重ねていく。リズム楽器がなく、足元がややおぼつかない特異な音楽でもある。 ただ、ボーッとレコードを聴く。明日につなげなくてはならない仕事のことはとりあえずウイスキーのグラスをぐっと煽り忘れる。 巡業先のとある街のホテルの一室、互いの息を確認するかのように合奏する三人の都会的なジャケットとは別に、この音楽は土臭く、泥臭い音であるように感じる。 レコードの音質に、こもった感がある。決して、澄み切った良い音で録音されていない。エンジニアをみると、トム・ダウトの名前が。この音楽に、この録音、なるほどなと思う。若い頃からブレてなかったのだ。 ポツンとレンガ造りの家、コテージの揺り椅子にはパイプをふかす老人の姿。 遥か遠く向こうを馬に乗った一人のインデアンが平原を渡っていくようなイメージをある曲に感じる。 対立のない、平和的な風景。 白人とインデアン、黒人のでてこない西部劇。だから、このグループに黒人のリズム・セクションが不在なのか? というのはあまりにも幼稚な発想であろうか。 ジミー・ジェフリーはどこか都会的なセンスを持ち、砂埃など無縁のようだが、彼はテキサス州生まれらしい、どうりで、出世作があのサボテン・ジャケット”ウエスタン組曲”なわけだ。 極めて、白人的なトラデショナル音楽、ジミー・ジェフリー流フォークソング。ソング・サイクルとかジョン・サイモンのアルバムなどの共通性も見いだせるのではないかと気づいたりする。 だが、そんな知ったかぶりの深読みをするよりも、このレコードは深夜ただボーツと聴くのがいちばんいい。 草原を渡ってゆく風をただ何を思うわけでもなく眺めている時の、時が止まったような感覚。 一日が、12時間しかない現代において、この音楽は深夜のしじまにとても合う。 便利になった世の中は時を加速させる。 明日はすでにそこまで来ているが、ここだけは、時が重くゆっくりと流れていく。 #
by senriyan
| 2017-02-27 21:16
|
Comments(4)
2017年 02月 12日
アーゴ・カディット・レーベルのレコードをコレクションしている。すると、看板アーティストであるところのラムゼイ・ルイスとアーマッド・ジャマルのレコードがこれでもかと集まってくることになる。 レコード買いで、お店を何軒かはしごしてとくに収穫のない日、すっと、頭を切り替えてこの二人のコーナーに向かう。手段としては、まったく悪くない。 今回はそのアーマッド・ジャマルについて、ただ、知ったかぶりをしてみたい。(笑) まずこの人のレコードを買えば買うほど、聴けば聴くほど、この人のピアノ・スタイル、音楽って、やはり異質だなと思うのである。 まず、この人の弾くピアノには、なぜか、黒人の持つ、アーシーかつブルージーな粘りのあるところのブルース・フィーリングが希薄なのである。その例が、”アーマッド・ブルース”だろう。それまでの汗とか涙ではなく、都会的に洗練された生き方、それを求めんが為のブルース。良い意味でそんなこと思ってしまう。 "JAMAL AT THE PENTHOUSE” ARGO LP 646 ![]() (独身のプレイボーイが、ガール・ハントした女子をアパートメントに招いて、一流シェフのデリバリー、シャンパン、さて、ミュージックは・・・、という時の為に作られたレコード、極めて白人的感覚を持つ) どこか、黒人らしからぬピアノスタイル。が、だからと言って、ここには強靭なバネがあり、それは白人のスタイルにはないものである。 まあ、良い音楽に黒人も白人もないわけであるが、アーマッド・ジャマルのピアノ、音楽スタイルというのは人種や肌の色を超えた音楽であるように思える。 黒人でも、白人でもない音楽。ここでシロクロはっきりしろよと乱暴なこと言ってはいけない。(笑) しかしながら、当時、アーマッド・ジャマルのレコードが売れに売れたという事実。ぼくはここに、多くのリスナーがそのシロでもないクロでもない新鮮な空気を含んだ風を大いに感じたからではなかったかと思っている。 なぜ、これまで、アーマッド・ジャマルの音楽が黒く感じられていたのか、ほぼ作品が、やはり黒人アーティスト専門レーベル・アーゴからリリースされていたということが大きいだろう。あの濃厚な黒人感でまるごとパッケージングされたレーベルの雰囲気にはそうした事実さえも薄まってしまう。 さらにはまた、紅茶メーカーの老舗ブランド、アーマッドの容器、その缶のラベルが黒だったから、これは冗談である。(おバカ) アーマッド・ジャマルのピアノ・スタイルには、いくつかの特徴がある。 良く言われるところの”間”、執拗に繰り返される同じフレーズのリフレイン、鍵盤をゆっくり転がるコロコロ音、時にスナップを利かせて強く鍵盤を叩く音。 まず、間であるが、これは通常考えれる音楽的な間とは意味を異にするものである。アーマッド・ジャマルの間とは、この場合、タメである。持続であり、キープである。彼は曲のプレイ時に、ところどころに、こうした間、同フレーズのリフレインを入れることで、それまでの演奏スタイルにはなかった新たなノリを生み出した。と思う。つまりは、間を取り入れることで、聴く者をじらすにじらす・・・。そうして、やがて、鍵盤をコロコロさせながら、少しづつ音を出していったり、スナップを利かせて強く鍵盤を叩いた後、突然、堰を切ったように音を溢れ出させたりするのだ。 聴く者は、ここに知らず知らず快感をおぼえる。出来る女子の男性とのメールのやりとりのようだ。気付いた時には、このピアノ・スタイルに、気まぐれ女子に、身も心も魅了されている自分がいるということになる。 ただ、この特徴的な間とは、完全に音楽そのものがが停止してしまうものではない。その間、しっかりとベース、ドラムは音楽をしっかり、持続させ、キープさせている。 言わば、アーマッド・ジャマルの音楽で、ジャマルの存在が人間の上半身とするならば、彼らの存在はその下半身と言えるのだ。 だから、ベース、ドラムに、強い自己主張のようなものが皆無である。献身的にリズム・キープに徹しきっている。ソロのようなものもない。(例外的にあるものもある) 恐らく、アーマッド・ジャマル・トリオのメンバー募集の広告はつぎのようなものだったろう。 ベーシスト、ドラムス 募集 各1名 献身的にリズム・キープに徹しきれる方 あまり、ソロを取りたがらない方 地元シカゴを愛し、よその土地に興味のない方 そして、このリズム・セクションは実に呼吸ピッタリだ。上半身ジャマルは時にそのリズムから浮遊、離脱する。 だが、下半身はその着地点をしっかり分かっている。 昔観たアニメ、ルパン三世で、こんな場面があった。 荒廃したビルの屋上に追い詰められたルパン。取り囲んだ警察とともに、”ルパン観念しろ~”と銭形が叫ぶ。 ルパンはニヤリ微笑むと、屋上からサッと飛び降りる。 ”早まったかルパン!” すると、その真下に、どこからともなく、次元、五右衛門が乗ったオープン・カーが颯爽と現れルパンをキャツチする。 ”あばよ、銭形のとっさ~ん” 別に、アニメオタクでもないのだが。このリズム・セクションのやりとりにはそんなことを思わせる。 ”NAKED CITY THEME ” ARGO LP 733 このアルバムは個人的には傑作だと思っている。タイトル曲は、過去に日本でも放映されていた米ドラマ、”裸の町”のテーマ・ソングではなかろうか。この曲が実に良いのだ。犯罪ドラマらしい、緊迫感のあるリズムの谷間を抜けてその美しい旋律が流れ出す、こぼれ出す瞬間。聴く都度、あ~素晴らしと思う。なぜ、この曲はヒットしなかったのか。 アーマッド・ジャマルの音楽の特異性は実はもう一つ大きなものがある。 それは、かねてからよく言われていることかも知れないが、間とともに、その音数の少なさである。 ジャマルはその表現としての音をミニマム、最小の音で表現しようとする。そこにあるものを音すべてで埋め尽くそうとしない。 そこにあるもの、音は、つねに控えめである。言ってみれば、彼の音楽とは、あえて、余白を大きく残したもの、残したままなのであると言えると思う。 つまりは、すべてを言い切ろうとしない。結論づけないといったところか。あえて、その余白、スペースは聴く者一人ひとりに委ねられている。もちろん、聴く者はこの余白、スペースをどう感じようと、どう使おうと自由だ。 いつしか、フリッツ·ラッセル·ジョーンズは、アフロ・アメリカンでいることのこだわりを持つことをやめ、やがて、アーマッド・ジャマルと改名した。 そう、彼の音楽の特異性に、当時のアメリカにおいて、黒人でも白人でもなかった新たな感覚者としてのアーマッド・ジャマルの音楽として哲学があると思わずにはいられない。 時の有力な武将に声を掛けられても、それをさらりとかわし、決して、上洛することのなかった鹿後(しかご?どこだそれ)の大名。 この人の凄いところは、それだけの特異性を自身の音楽のなかに持ち秘めながら、私はただの平凡なピアノ弾きの一人でございって、それを半世紀以上やっているところだろう。 こういう人がジャズにもいる。 #
by senriyan
| 2017-02-12 16:36
|
Comments(2)
2017年 02月 05日
DIZZY GILLESOIE and his orchestra featuring CHANO POZO GNP VOL.4 家のレコード棚から何気なくこのレコードを抜き出すと、いつもしばらく手にとったまま眺めてしまう。 そして、ただイイナァ~と思う。 大人になって、アメリカが好きかと問われれば、言葉に窮してしまう自分がいるが、このジャケットには少なくともぼくの好きなアメリカがある。 これぞ、元祖ヘタウマなイラストレーション。だが、茶目っ気にあふれていて、ヒップでいて、奔放で、何しろ、ものすごく自由を感じる。 そう、まさに、ジャズそのもの、アメリカそのものではなかろうか。 そして、このレコードこそが、ビ・バップとキューバ音楽との出会いアフロ・キューバン・ジャズを代表する一枚なのである。 アフロ・キューバンこの魅惑のワードに妙に惹かれる自分がいる。ハード・バップにこの要素が入ったそんな曲が入ったレコードを見つけるたびに、一人ニンマリしてしまう。まさに、吸いよされるようにそんなレコードを探している自分いる。そう、まさに、ぼくにとって”アフロ・吸盤ジャズ”なのだ。 ケニー・ドーハムのそのもずばり、”アフロ・キューバン”やエディ・ロックジョー・ディビスの”アフロ・ジョーズ”なんかを好きな人ならば、分かっていただけるかも知れない。 まだ、ビ・バップの熱を冷めやらぬ1947年、新しいアイデアを模索していたディジー・ガレスピーのもとに、マリオ・バウサの紹介でキューバ人のパーカッション奏者でダンス、さらには作曲も行うチャノ・ポソが新たにバンドに加入する。 バンドは慣れないリズムにおいての試行錯誤を繰り返したのち、その新たな音楽スタイルを確立する。 1947年9月にはタウン・ホールで競演コンサートが行われ、熱狂の渦が巻き起こったと言われている。 この盤は翌48年7月のパサディナの公演が収録されたものである。 ディジーのトランペットの勢いもさることながら、バンド自体が強烈なうねりを持って迫ってくる。それもそのはず、バンドのメンバーのなかには、アニー・ヘンリーがいて、ジェームス・ムーディー、セシル・ペイン、ネルソン・ボイドなど凄腕のメンバーがいるのである。 ”マンテカ”というタイトルは、ぼくのなかで、南米は秘境の山の神みたいなものを勝手にイメージして聴いていたのが、今回、ライナーをふと見ると、”MANTECA”(Lard in spanish)とあるのに気付いた。調べてみると、スペイン語でラード、脂の意味であった。 そうした意味でこの曲を改めて聴くと、チャノ・ポソの指の脂でテカったコンガの皮が眼に浮かんでくるようになるから音楽というものは面白い。 で、何より、このレコードいろんな要素が詰まっている。ディジーとアニー・ヘンリーのシュビダバーなスキャットの掛け合いがあり、”ドュー、ドュー”を連発するところなど、ほとんど、吉本新喜劇である。足をバタバタさせる音などは、恐らくはタップダンスのようなことをやっているはず。そして、極め付けは、ジャングルに迷い込んだような気分にさせられるチャノ・ポソの奇声とともに鳴り響くパーカッション。それまでのジャズなかったであろう魑魅魍魎的感覚に観客も熱狂する。 また、ところどころ笑いに包まれているのが印象的だ。 50年代以降、ジャズはマイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスのイメージにあるようなストイックでクールな音楽というのに定着してしまう。まあ、言ってしまえば、笑みを忘れた。 このレコードを聴いていると、本来、ジャズというものはこの方向もあったんだよなという気が大いにしてくる。アフロ・キューバンの新録を出したとはいえ、ウイントン・マルサリスなんかが最も苦手とする分野だ。そりゃ、ウイントン・マルサリスがマイクに向かって”ドュー、ドュー”を連発したら観客みんなドン引きだろうけど。 だが、しかし、このバンドの立役者、肝心のスパイス、ラードとも言うべき、チャノ・ポソがこの年の12月、ハーレムのクラブでのいざこざがもとで射殺され死を遂げる。アメリカとはまたそうした国でもある。 つまりは、この録音のたった三ヶ月後には、こうした悲劇が待っているのだ。 このレコードには、何か新しい可能性もみてとれる。もし、チャノ・ポソがこのまま存命していたら、恐らくはディジーとさらに強力で芸術性にとんだアフロ・キューバン・ジャズを作っていたかも知れない。ポピュラー音楽のリズムの変革が起こっていたかも知れない。そんなことを考える。 アメリカは、あるゆる民族が混然一体カオスとなり、あらゆる文化を作ってきた、形成してきた。人種に関係なく、才能もしくは、運さえあれば叶うアメリカン・ドリーム。 このレコードを取り出すたびに、いつも、ただイイナァ~と思う。 #
by senriyan
| 2017-02-05 17:24
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||