シャンパンタワーの法則としての音楽 |
カレンダー
カテゴリ
以前の記事
2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2022年 06月 19日
Motions & Emotions Oscer Peterson レコードに針をおろす、こすれるスクラッチ音、すると、音楽とともに、どこからともなくその時代感が部屋に忍び寄ってくる。 それは、当たり前だが、高額盤、安レコ、値段の問題ではない。 だから、現在、2022年にアナログ・レコードで録音された音源作品は、今から百年後、2122年に聴かれたとしても、その音楽からは、この2022年の気配をまとい、漂わせて、聴こえることだろう。結局、私がレコードを聴く理由はそれである。レコードの音が、所謂、高音質だからではない。そもそも、アナログ・レコードに高音質という言葉は似合わない。例え、それが、音の良い盤だったとしてもだ。 ついでに書いておく、レコード・コレクターがレア盤、高額盤を買う行為として、人に自慢したいというのがあるのではないか、という見識をお持ち方がいる。 大枚をはたく理由は、何より自分がその一枚がほしい、必要だからであり。作品の内容も知らずに、興味もなく、人の羨望をあびんが為に、だけに、その一枚を入手するということはない思う。大枚をはたいた、明日からどうしょう、奥様に如かれられる、その代償があって、ようやく、自慢、人様の羨望をあびることが叶うのである。望むか望まないかに関わらずに。ただ、私が言いたいのはレコード・コレクターはまず純粋であると思っている。 ジャズのすべてが好き、ジャズ全般なんでもこいです、というわけにはさすがにいかない。ジョゼッピ・ローガンとケニー・Gが好きですという人がいてもおかしくはないが、なんか、ほんとかよ、という気持ちが先にたってしまう。その人には、ジョゼッピ・ローガンとケニー・Gの人格が交互に訪れるのだろうか。 私の場合、嫌いというわけではないが、ジャズ・ピアノの大御所でいうところのオスカー・ピーターソンがなんか苦手だった。サイドマンとして参加しているレコードは数枚あるが、この人のリーダー・アルバムというのは一枚も持っていない。応接間に置かれたステイタスとしての高級オーディオ、音楽ファンではない、かってのサイドボードに置かれた高級酒のボトルそれと同じ空気感を持つ、そこに流れるのはミュージックとは、品格、知的な雰囲気を演出、安全保障のMPSレーベル、オスカー・ピーターソンの作品群。そんなド偏見なイメージを持っていたからか。 だから、この間、レコード店で、オスカー・ピーターソンのMPSを見かけても、なんとも思わない私であったが、今回、ふと、めずらしく手がとまったのだった。なぜか・・・。なんと、このレコードは白ラベルのプロモ・コピーだったのだ。 おおっ、MPSにもこうしたプロモ盤があるんだなと感心することしばし。オスカー・ピーターソンに限らずMPSのプロモ盤など今まで見たことは一度もないように思える。プライスカードには、例のごとく高音質の文字が躍る。高音質かどうかかは、こっちが決めることじゃいと思いながら、たださえ、良音盤のMPS、うーむ、なら、このプロモ盤は、より、生々しい音が刻まれているのではないかと。ヤッタ!とガッツ・ポーズを決めレジに向う私だったのだ。 家に帰るや、その音質を確かめようと・・・。 すると、だ、そこから流れ出した音楽、良音は間違いない、当時のジャーマン・テクノロジーの最高峰を駆使して録音された音楽。まさに、芸術的な工芸品、ファニチャーのような、ふと舞い降りた落ち着いた空気感があたりを一変する。そして、この音楽から、私は、やはり、やはりだ。この音から、その時代の匂いを感じずにはいられないのだ。 うん、この音を聴いていると、自分の学生時代、もしくは、就職した頃の、1970年後半の雨の喫茶店のイメージがどこからともなく押し寄せてくる。 モーニングセットなどを頼みながら、雨のウインドウを眺め、ただ、ボーツとしていたあの頃のイメージが・・・。 あの頃、喫茶店にはBGMがあった。CDもなくサブスクリプションもない時代、あの頃のそうした音源は何が使われていたのだろうか。 有線だろうか。ラジオだったのか。はたして、店主がレコードを一枚、一枚、かけていたのか。どちらにせよ、この音には、そうした記憶がまとわりついて聴こえる。 オスカー・ピーターソンに敢えて弾きすぎない、計算された、あえて音数をおさえたピアノ。そのそれを包み込むような流麗かつ冷気を感じさせる、クラウス・オガーマンのストリングス・ホーン・アレンジメント。そのそれは、シャンパンタワーを眺めているような、最上段のグラスは自分のグラス、自分を満たせば、まわり人間も満たされるというシャンパン・タワーの法則、資本家のパーティ、そんなことを連想してしまう。いちばん上のグラスが自分だというところがいかにも資本家らしいイヤらしい考え方だ。 だが、何より、この音には、雨のその湿り気がある。1969年の西ドイツ、その日、MPSのスタジオは雨だったのではないか。あまりにも、優秀すぎる録音、機材が、その雨の質感、匂いまでも意図せずにひろった。 今思えば、このレコード、オスカー・ピーターソンのピアノ、バッキー・ピザレリのギター、サム・ジョーンズのベース、ボビー・ダーハムのドラムという米ミュージシャンの起用、クラウス・オガーマンのアレンジ、”Sunny”などの当時の米のヒット曲、なんと、ヘンリー・マンシーニ「ティファニーで朝食を」の”Sally's Tomato”をアルバム一曲目でやっている。さらには、ビートルズ・ナンバー2曲、そして、ボサノヴァ・ナンバー、”Wave”だ。そう、この感覚は、あのクリード・テイラーが興したレーベルCTIの感覚にもの凄く近い。おまけに、ジャケットも見開きダブル・ジャケット、コーティング仕様だ。 ちなみに、アントニオ・カルロス・ジョヴィンのCTI"Wave”は、これより二年前。ともに、アレンジャーはクラウス・オガーマン。 だが、これが、決して、米一色に染まっていないのが、やはり、それまでのジャズの米盤にはなかった厳格ともいえるその音の質感にあるからだ。 この後、同じ時期の、ジョージ・シアリングのキャピトル盤を聴いたが、その音の違いは歴然と感じられる。としても、MPS盤が勝っているというわけではない。 あの頃の、喫茶店でこのようなライトなジャズ・アルバムがかかっていたような気がする。そして、まさに、私はこのレコードを聴いたような気がする。 聴覚の奥底の記憶が揺さぶられるような感覚、雨の喫茶店、線路わきの紫陽花、欧米では紫陽花というのはネガティブな感覚でとらえられているようで、その花言葉は、高慢、冷酷などの意味を持つようだ。MPSの音質、徹底して厳格、威厳、ジャズが持つ本来の猥雑さ、ニューオリンズの売春宿、そうした匂いを一切合切排除したような、ここまでくると高慢までも言わないが、近寄りがたい人々のパーティを思い出したりするのも確かだ。きっと、私が若い頃、MPSのオスカー・ピーターソンを嫌っていた理由も、そんなところにあるのではないか。 だがだ、年齢を経て、自分も変わった。いつまでも、ライ麦畑少年ではない。シャンパンタワーのグラスの順序など、頭のなかで変えればよい。 これは何より、憂いを知っている大人、憂いに打ちひしがれている人間が、週末の夜に、つかの間、杞憂を忘れて、逃れて、その一時、隠れ場所のごとくして聴く音楽なのである。そして、そのリスリングは、そう日曜の夜がふさわしい。休みはまだ終わっていない。夜が更けてこのレコードをゆっくりと聴く。そして、ただただ、この音の連なりに、響に、ただただ、酔い、うっとりする。 そして、思い出す言葉は、シャンパン・タワーの法則。自分を満たせば、さすれば、まわりの人間も満たされるだ。
by senriyan
| 2022-06-19 21:04
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||