会社の帰り駅でいつも買っているチューハイとつまみなのだが、そのつまみ、海苔巻き煎餅にピーナッツ入り百円が売れ切れていた。些細なことではあるが小さい幸福を奪われたようでイライラする人間のできていないオレ。次の駅まで行って買うか、いや、このつまみを売っているお店は次の駅はないぞ、というわけで、わざわざ二駅、逆の電車に乗って目当てのつまみをゲットする。このさい、二袋買うか、なんならチューハイも大きい500mでと。そんで、対面シート4人掛けを一人独占、足をのばし、ようやく至福の一時へ。すると、突然、ゴキゲンになるゲンキンなオレ。
通っている泌尿科では、三か月に一度、オシッコの勢いの検査というものがある。検査は簡単で便器に向かってオシッコを放つ、立ってやってもよいし、座ってやってもよい、それだけ。終わったら検査終了のボタンを押す。だが、面倒くさいのは事前準備、決められた量の水を飲んで、尿意を感じるギリギリまで我慢をして、これ以上我慢できないといった状態で看護婦さんを呼んで検査に臨むということになるがこれがなんとも煩わしい。
私は、もう何度もやっているこの検査のプロなのでこの限界地点を96%と見極めそれくらいで申告するようにしている。だがだ、今日、となりで初めてこの検査を受ける同年代思われると五十代後半、雑誌サファリとか読んでいるような細見パンツのオシャレなオジサン、この限界地点を生真面目にとらえ99%位で申告に及んだものと思われる。「はい、わかりました、準備しますのでほんの少しお待ちくださいね」との看護婦さんの言葉を受けて待つもののなかなかその呼び出しがかからない・・・。オジサン、苦悶の表情、ふいに立ち上がり、天を仰いだり、座ったり、そのうちに足、ガクガク・・・。ついには検査をあきらめたか、立ち上がるとトイレの方向にトボトボと歩き出す。だがだ、ついには、途中、柱に寄りかかって、しばし、停止。その後、動かず。これは、ヤバいと私、オジサンに近づくと、あえて腰のあたりは見ないようにして「何か、お手伝いできることありますか」と私。
すると、オジサン「お気遣いありがとうございます。今、近くに住んでいる娘を呼んだところです・・・」
昨今、若者の間でBSTが人気らしいと聞き及ぶ、おっ、ブラス・ロックのリヴァイバルか!と思ったところ、よく聞けば、BTS韓国のボーイズグループとのこと。
さいぜりの列に並んだお嬢さん、袖を通さず、両肩にかけたジャケットが寅さんの上着にそっくり、しかも、アンティーク風デザインいかにも柴又の土手に似合いそうなトランクが足元に。思わず「お姉ちゃんも、これから売(バイ)かい」とか言いそうになる。
「ドライブ・マイ・カー」アカデミー賞、国際長編映画賞は確かに喜ばしいことだ。だが、三時間、とくに大きな事件が起らないこの作品をエンターテイメント好きの米国、いや、世界が面白がったというのが面白い。映画通をきどるわけではないが、そういや、ヴィム・ベンダースのロード・ムービー三部作とか、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・パラダイス」も取り立てて何も起こらない映画だった。
西島秀俊、かって、テレビ局撮影現場、助監督に怒鳴られて泣いていた女性スタッフに「大丈夫と」優しく話しかけ介抱とな。うーむ、西島株急上昇、またも私の嫉妬の炎がメラメラと。「真犯人フラグ」このフラグってなんなんだ?
よく行く近所の温泉施設、浴室にて、十代と思われる男の子三人組、そのうちの一人が黒い海パンらしきものを下半身にまとい湯船につかる光景に遭遇する。
市バスに乗る。後ろの二人掛け座席で妙齢のご婦人二人組の会話。「あら、どちらへ?」「ナニナニ図書館で映画の上映会」「あら、いいわね。どんな映画?」「くれみらー物語、ジャズの指揮者のお話し。もう何度も観てるのよこの映画。凄くいい映画」えっ、ここで思わず聞き耳を立ててしまう私。だが、くれみらー物語ってなに? お話しは続く「昔の映画って素敵よね~、女優さんも綺麗よね~」
バスを降りて、しばし考える。くれみらー物語、「グレン・ミラー物語」ああそうかと気がついた私である。
「グレン・ミラー物語」この映画の脚本の上手さについて、和田誠さんが書かれていたと思う。今、それを探してみたが見つからない。
和田誠さんの「倫敦巴里」は高校生の頃に買った。ユーモア、贋作、パロデイとは何か、その真骨頂のような本。「暮らしの手帳」ならぬ「殺しの手帳」私もずいぶんこの本に影響された。この本に出会って以来、和田さんのレベルにはとうてい及ばない低レベルのオヤジギャグばかり考えているワタシ。思えば、和田誠さんのイラストや似顔絵とはその実像に対しての筆を通した愛情あるモノマネであり、我々はそのディフオルメの拡張のセンスに酔うことになる。和田さんの表現の基本、根底にあるのが、「倫敦巴里」あるところの、ユーモア、贋作、パロデイではないか。
そこがどんな場所でも構わないが、喫茶店でも、ホテルのラウンジでも、蕎麦屋のカウンターでも。そこに、ガット弦でつま弾かれるギター、穏やかに、ブラジルの風が、その気配がそっと舞い降りる時。それが、ローランド・アルメイダ、チャーリー・バードのどちらかであった場合、その違いを瞬時に聞き分けることのできる人はどれ位いるだろうか。よほどのギター・マニアか。正直、私にはまったく分からない。この二人の入ったレコードを自身の棚から探しだし、裏ジャケットに写る二人のバック・フォトを何気なく見比べ眺めた時、二人に手にするギターが同じものを使用していることに気づいた。かたや、生粋のブラジル生まれ、かたや、米国ヴァージニア州生まれ、この二人自身の人生のなかで、それぞれがジャンゴ・ラインハルトに邂逅する時期を得ている。一般的には区別しずらいこの二人の違いについて書いてみることは面白いかも知れない。
この間、オーネット・コールマンの「EMPTY FOXHOLE」のレコードを手にいれた。オーネット本人による抽象画、いわゆるアクション・ペインティングのジャケットがカッコいい。まだ、幼い10歳の実子デナード・コールマンにドラムを叩かせたある意味問題作。で、タイトルが「EMPTY FOXHOLE」空虚な狐穴? もっと調べると、FOXHOLEとは、戦場での塹壕のような意味もあるらしい。オーネット・コールマン、この人の曲名、アルバム・タイトルはいつも文学的だ。しかもこの時代の現代文学。この人の代表作「ジャズ来るべきもの」The Shape of JAZZ To Come には、”ピース”Peaceとついたタイトルの曲もある。1970年代でピースは当たり前だが、時は1959年である。こういうタイトルを考えるブレーンが彼のまわりにいたのだろうか。いや、私はこの人のセンスだと思う。オーネット・コールマンの文学性タイトルについてそれをただミーハー的に書いてみるのも面白いと思った。
会社の帰り、貯水槽にある一本の桜、それが街灯に照らされ、見てくださいとばかり咲き誇っている。そういや、花見も忘れていたわい、と件のチューハイを取り出し、缶を開け、しばし、ガードレールに寄りかかえりその一人宴に酔う。とはいえ、堪能するものも一人花見、やがて、寂しさが勝ってくる。本来、この樹をがもつ、根底に持つ、押し殺したえも知れぬ寂寥感が辺りを包み込む。ちょうどよくここでチューハイも切れた。しずくを地面にはらい空き缶をコートのポケットにねじ込むと、私は、この場所で感じたその余韻を背に帰途につくのであった。