昨今、いちばん贅沢な時間とは何か、ふと気が付けば、それはただ何も考えずぼーっとする時間ではないかと思っている。
生活のすべてをスマートフォンに支配されている我々、その電源を5分程度落としてみる。その時間は、その支配から逃れた特別な場所、現代人にとってのもはや秘境、隠れ里ともいえる場所なのではないか。
ただ、ボーっとする。この場合、そのぼーっとは、よしこれから私はしばらくぼーっとする体制に入るぞと、というような決意表明をもったものではなく、そのぼーっとが、ぼーっの方から、自身にやってくるという状態を指している。忙しい日常、折り返しのタペストリーの日々、合間をぬって、そのぼーっとは、ふと降りてくる。自身でもあまり意識もせずに。電車を待つ間のホームで、昼休みのベンチで、出先のバスの車中で、ふと道を歩いていて・・・。
そして、そのぼーっとは過去の記憶を脳裏に写しだす。未来を思い、ぼーっとするという話しはあまり聞いたことがない。ぼーっとする、それはこれまでの過去の記憶の砂漠、もはや取り出すこともできない忘却の砂丘から、それがふと蘇る。ふだん、とうに忘れている記憶の断片を。砂漠は生きている。砂埃を払うようにして。なぜ、人間の脳はいたずらにこのような働きを時に及ぼすのか。
だがそれは、たいていとつて足らぬ記憶の断片である。母親の小言、幼い頃、家族の会食でレストランに行ってテーブルの上をネズミが走り抜けていった記憶、長靴とジャムパン、昔観た映画の筋とはあまり関係ない何気ないシーン、高熱を出した時のシュールな夢の記憶、狂った十項、旅の記憶、路地、なぜかこの場所を以前より知っているような、過去の恋人との何気ない会話、しぐさ、または、これまでの人生、すれ違ってきた多くの人々、その余韻、決定的な出来事の何かではない。その場所、その時、冬の喫茶店に差し込む柔らかい陽光・・・。
それらをただただミストの雲海の間を彷徨うように、ぼーっと、受け止める。しかし、何よりそれは、それにはだ、多くに、刹那さが成分が含まれている。はずなのだ。なぜなら、それらは、とうに過ぎ去ってしまったこと、今さらどうにもならないものだからだ。そうして、やがて、ふと、我にかえる。スマートフォンを取り出し、ああ、もうこんな時間かと。そして、その刹那さをそっと飲み込み何事もなかったようにいつものの日常へと歩きだす。
だが、年をとってくると、その記憶の刹那さが暖かみを帯びてじんわりと胸に沁みてくるようなる。なぜか分らない、結局、人生とはとるに足らない陳腐な日常のひとコマその蓄積で出来ている、それを再確認することで、ノルマ、目標、誠実、勤勉、努力、それまでの日常からいからせた肩の力がそっと抜けるのか。そして、自身でも特に意識もないまま、その感覚を待ちわびるようになる。きっと、待ちわびている。
サイタマは退屈である。大型ショッピングモール、スーパー銭湯、回転寿司、それは、どこにでもあるような街の姿。風景、背景。ただの有名チェーン店舗の集合体。味覚の均一化。海もなければ、名峰もない。ただ、ただ、のっぺりとした大地がどこまでも広がっている。地方の退屈さ、いや、地方にはそれぞれの名所、名産がある、だが、ここにはそれも希薄である。ある意味、東京の郊外、街外れ、そのどこまでも続くその延長線。”なぜか、今、さいたまが気になってきた!”という特集を雑誌ブルータスが組むことはないだろう。
だけど、senriyan、モンゴルの平原でも、ゴビ砂漠でも、それは言えるんじゃないか。いや、いや、そこに生きるには、経験と生きる為の技術と忍耐力とある意味、思想、哲学、意思が必要とされるだろう。だが、ここサイタマではそうしたものは何ひとつ必要ではない。ノシがついた手拭の一本でも持参し、昨日、どこどこから引っ越してまいりましたsenriyanでございます、よろしくお願いいたします。というだけで、明日からの生活はほぼ保障される。
休日の朝、市内循環バス、どこまで行っても百円、に乗っていつもの天然温泉に向かう。その車中、外の景色、庭先に両枝に実らせた実を重そうにしている柿の木を目にやりながら、ぼーっとする。そして、それが、どこからともなくやってくる。降りてくる。小学二年、だが、三年だがの記憶・・・。
ある日、学校に転校生がやってきた。優等生タイプの女の子、クラスの担任教師は言った。「それでは、ナニナニさん、自己紹介をお願いします」
彼女はとても、緊張していた。ガチガチで震えているようにも見えた。昨晩から、聡明な彼女のなかでこのような儀式ともいえる瞬間が訪れることを予想していただろう。それが、今、やってきた。
だが、彼女は、その時の私の想像を遥かに超えるような、発言、行動におよんだのだった。彼女は言った。「自己紹介の変わりに唄を歌わせてもらいます」と。
そして、彼女は、かのロシア民謡、その頃、誰もが知っている「一週間」を歌ったのだ。あの 「日曜日に 市場へ出かけ糸と麻(あさ)を 買ってきた、テュリャ テュリャ テュリャテュリャ ~」という歌をだ。
その歌はそれほど上手ではなかった。だが、彼女はそれを極めて誠実に歌った。茶化すものはいなかった。その行動、誠実さに、クラスの生徒は居を射抜かれてポカンと聞いていていた。
なぜ、こんなことを、ふと思い出すのだろうか・・・。脳の海馬という部分はなぜ、唐突にこのような記憶の引き出しをふと開けるのだろうか。
そして、このぼーっとするするふさわしい場所とは、何を隠そう、ここサイタマなのである。この地には、ぼーっとするその条件を邪魔するものは何もない。ぼーっとしては、我に返り、またぼーっとしては我に返りを心ゆくまで堪能することができる。かって、縁側で渋茶をすすりながらぼーっとする老人、人生の円熟期、それを達した者、過ぎた者だけが知るその境地、その真の醍醐味を人生の大先輩の方々はとうに知っていたのだ。
だが、人類はこのぼーっとする行為、その真の魅力に気がついていない。相も変わらず、先進国は目先の利益を追い求めるべき滑車に乗ったネズミごとき忙しく動き回っている。
サイタマは退屈な場所でいいと思っている。この地にある凡庸さ、非凡さとは現代の混沌たる世界情勢から見れば、ある意味、奇跡ともいえる。もはや、世界的にみても最も稀有な場所ではないか。あ~退屈だ、何もすることがない、それほど、我々は自由なのだ。
しかしながら、いずれ、人類は、気がつく時がくるだろう。この退屈というと尊さを。退屈だから悪行に嵌りましたと言う話しはあまり聞いたことがない。あまりにも退屈なので、ひとつ、人助けでもというなら分からないこともない。退屈にはそうした可能性すらも秘めている。退屈(boring)というワードはいつかトレンドの殿堂入りするだろう。世界は退屈を求めている。そして、そのぼーっとがやってくる。