二枚のバラード集 |
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2020年 06月 14日
三連休だった。 これくらい休みがあればいくらでもレコードが聴ける。うん、でも最近、ジャズのレコードは4枚くらい聴くと疲労を感じるようになった。かっては一晩中でも聴いていられたのに。 以前、かなりいい装置でクリフォード・ブラウンとマックス・ローチのクインテットを聴いて、始終鳥肌が立ちっぱなしであったが、どっと疲労感に襲われた。 ジャズという音楽は聴くと疲れるというのが私の本音である。かってのジャズ喫茶がそうだった。大音量、私語厳禁、ジャズマニアからの威圧、漂う緊張感。 かって、大昔の、いや太古のジャズ先輩に、「何、コルトレーンのバラッド、君ねぇ~、これはねコルトレーンの息抜きなのよ、こういうの聴いてちゃダメなのよ」とか言われたものだったが。 でも、今、そんなこと言う人はいない。書いている人もいない。それどころか、このレコードの価値は上がっていると聞く。私が持っているのはカナダ盤モノラル、そして、若かりし頃買った赤黒のステレオ盤。聴くのはモノラル盤ばっかりだったが、最近はステレオ盤もいいなあと思っている。 このレコードは単純にBGMとしても聴ける。ジャズ・バーでこれを怯むことなくリクエストしてウイスキーを飲む。ただ、それだけでも、この盤の価値は充分ある。もしかしたら、今のジャズの聴かれ方とはこうしたものかも知れない。それはそれで正しいと思っている。適切な音質で、音量で、雰囲気で。そして、この盤はそれに対し間違いなく完全に近い形で機能する。 だがだ、このレコードもじっくり聴くとならば、これまた疲労感の伴う作品なのである。これを家で両面じっくりと聴くと、もうしばらくはいいやという気持ちになる。なぜなら、この美しいと思えるバラードにも濁った感覚がある。その毒が、ある意味、感覚をマヒさせ気持ち良くもさせるが、と同時に消耗もさせる。もう一度、頭から聴いてみようという気になったことは一度もない。やがて、レコードは終わり、疲労感を伴なったままレコードはジャケットにしまわれる。 だが、よほどのマニアでもなければ、ここにある濁った感覚など感じることはないと思う。なんせ、太古のジャズ先輩にはそれが理解できなかったくらいであるかして。しかし、ある時、このレコードを聴き、疲労しながらも何度も針を下す時、夜中ふと、それを感じることになる。その濁った感覚を。 それに対し、武田和命さんの「ジェントル・ノヴェンバー」は清らかな水である。 武田さんをはじめ山下洋輔さんトリオのメンバーがコルトレーンのバラッドから影響受けてこの作品を制作したことはまぎれもない事実であろう。これは、武田さんにとってのバラッドなのである。だが、コルトレーンのバラッドにあった濁った感覚はこの作品にはない。代わりにあるのが清流のような水の感覚である。そうしたことからか、このレコードを何度も聴くと疲れるということはないのだが、何度も針を乗せると魅力が半減する。その清流の、清らかさ、その眩しさ、尊さが、失われるように。だが、凡てを忘れ無心でこのレコードに辿り着く時、ふたたび、その清流は視界にあらわれることになるのだ。 濁った感覚と清らかな水の感覚。これは人種の表現による違いか。 我々日本人の表現においては、そこに、自身の気持ちの在り様をそこに汲み入れないということがある。何か、無になって、ただそこにあるものを表現しようとする。武田さんのバラッドの意図はそこにあるのだろうか。 コルトレーンのバラッドは美しい旋律の詩情のなかに本来もつ人の灰汁のようなものが、わずかに残ることの意味としての濁った感覚なのだろうか。 そういう単純なことなのだろうか。 だが、私はこの違いにやはり人種を否応なく感じてしまう。この濁った感覚は、我々日本人のジャズにはない。 当たり前だが差別ではない。だが、なぜ、人種とくれば差別なのだろうか。 違いがあるから差別が生まれると言った人がいる。 しかし、この違いは実は人種を飛び越え、ひとつに結集する。 濁った感覚と清らかな水の感覚。表現の違いはあるが、結局のところ私はそれらこそが、ジャズの正体ではないかと思っている。 つまりは、私にとってジャズを聴くとは、その濁った感覚を聴いているのであり、又、ある時は、清らかな水を感じ、聴いているのである。その清らかさを感じられない時とは、私が心底、ジャズを求めていない時だと感じる。自身がぼろぼろになって、反吐をまき散らして、のたうちまわる時、その水が清らかであることを実感できるのである。 どちらしても明確なのは、のたうちまわる、嗚呼、私にとってジャズを聴く、触れることとは疲労感をもたらすものだったのである。 ジャズの憧れからコルトレーンのバラッズをリクエストしてBGMとしてお酒を飲む。 だが、ある晩、これのある部分にひっかかるようになる。その濁った感覚を知る。 まったく同じ一枚のレコードであるにもかかわらず。 だが、その時はBGMとしてはもはやその人の耳には機能しない。空いたグラスの底を睨み音にただ耳を傾ける。やがて、ただ夜のしじまに落ちていく。 そんな夜が、私にもあったのだ。あったはずだ。 もはや、BGMとしてジャズを聴けない自分がいる。そして、ジャズを聴くこととは疲労をもたらすことを知る。
by senriyan
| 2020-06-14 20:28
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