MEL TORMÉ IT'S A BLUE WORLD BETHlEHEM BCP-34
正月、実家にて酔いつぶれ自分の部屋で植草甚一のエッセイを読むことが恒例になっている。
”パリの冬”と題された短いコラムに目がとまる。ホリディ誌に書かれたアーウィン・ショーの旅行記事を紹介した短いコラム。
「パリの冬はゆううつだからいい。恋人たちの熱はさめかけ、商人は破産しかけている。追放された国王や、発見されたスパイのためにパリの冬がある・・・」
植草さんはこう綴る。”ほろにがい味をもった散文詩でうっとりとなるが、最後に太陽がパッと輝きだすあたり見事だし一読をおすすめしたい”(知らない本屋を探したり読んだり)
この記事にチクっと反応する自分がいた。そして、古い記憶がよみがえってくる。
1999年、12月初めに鬱になって年明けまで会社を休んだことがあった。唾を飲み込むさえ億劫で、両腕は肩よりうえに上がらなかった。
追いつめられた表情で上司のディスクの前に立ったある日。あえなく、それは許可された。それまでのぼくのどこかおかしな行動、言動に気づいていたのだろう。「判った。ゆっくり休め、だが、おかしなことは一切考えるなよ」そう、上司言った。今、職場の若い者にそれを言われて、年末のそんな時期、そんなことが言える自信はぼくには毛頭ない。
それから、二日、三日、家でゴロゴロしていた。かかりつけの医師から、一度違う環境に身をおくとよいと言われる。それに対し、すぐに答えを出したのは家族だった。旅行でもさせて、一度、気持ちをリフレッシュさせようと。国内の温泉旅行などではなく、もつと、身が引き締まるような冬のヨーロッパにでもと。東欧辺りに、いや、何をそこまでしなくても、一度、新婚旅行で行ったパリなら土地勘もあるだろう。
そんなわけで、ぼくはその三日後くらいに成田にいた。パリ行きの便に乗るために。ディバッグにはパスポートと幾ばくかのお金とトラベラーズ・チェック。宿泊先のホテルの地図。替えの下着。役に立たないガラ携帯。CDを聴くためのソニーのディスクマン。それだけ。
CDは一枚も持ってきてなかった。それで、空港内のショップでCDを一枚だけ買った。当時リリースされた紙ジャケット。音楽との出会いはいつも不思議だ。フレッド・アステアは好きだったが、それほど、ジャズ・ヴォーカルものに傾倒しているわけではなかった。年配者の聴く音楽、そう思っていた。だが、ロックもニュー・ウエーブも、ソウルも、アンビエントならなおさら、お気楽なポップスも聴くような気分ではなかった。ふと、それを手にとっただけだ。
ぼくは身を埋めるように、シートに潜り込んだ。確か、2000年問題でコンピューターが異常を起こす懸念があるとかで、海外旅行を差し引かる人が多かった時期。確かに、その便の席はまばらだった。
成田の上空で、海を見下ろした時のその風景。朝日に照らされた藍色の海原。このアルバムのジャケットの海岸がいつも冬の海岸に見えてしまうのはその脳裏に深く沈んだその記憶のせいだ。
本を持ってくることもなかった。たから、ひたすらボーっとして。そして、このCDを何度も聴いた。
パリのホテルはオペラ座の裏通りにある古いホテル。真っ赤な絨毯が今もなお記憶に残っている。日本の古い場末のホテル、同じその空気を漂わせていた。狭いロビー、ソファーで疲れたはてた場末のカトリーヌ・ドヌーブがやはり真っ赤なネイルの両手を交互に見くらべていた。
その翌日、ずつと、ホテルにいた。やがて、ルーム・サービスが二人やってきて、部屋を掃除する。年配と女性とアメリからオーラを抜いたような若い女性。
”オマエ、日本人なら、さっさと観光行け、”オマエいると邪魔、掃除できない・・・。” そんなことを言っている。
そんなんで、オモテに出る。石畳、犬の糞、日本とは違う車の燃料の匂い、薄曇り、くすんだ石壁の建物、モノクロの風景、ヌーベルバーグ日和、下っ腹にくる寒さ、何度もトイレに行きたくなる。が、公衆トイレなどは見つからない。コンビニのトイレ、だが、コンビニもない。デパート百貨店ならあるだろう。だが、それも見つからない。すんでのところで、漏らしそうになって、カフェに飛び込み注文もそこそこトイレかと思って飛び込むと、そこは事務所。思わず、パルドン!、トイレ・シルブ・プレ。禿げ頭のオッサン、通じない。尿意、崖っぷち。もはや、体裁などかまっていられない。股間に手をあて、シー、シー。するとオッサン無言で奥に指指す、トイレ。事なきを得る。シー、シーなぜか通じた。赤ちゃん言葉は全国共通か。
こうして、パリ滞在中、ただ、ひたすら目的もなしに観光もなしにパリの街を彷徨い歩いた。凱旋門からバスチューユ広場まで。そしてまた往復。ホテルに帰ってもやることないので、ただ、わけもなく、ひたすら歩く。
尿意を感じるとカフェに入った。ワインかエスプレッソ。あまりにもお腹が減ると、ようやくレストラン。だが、フランス語はおろか英語すらも出来ないぼく。ボーイ、ギヤルソンとの会話がまるで通じない。
パルドン(ごめんなさい)、ウイ、ノン、と、ラデシオン・シルブ・プレ(お勘定をお願いします)が、旅行中全過程の会話のすべて。
メニューに写真はない。やりとりが理解できない。いや、何でもいい、腹が減っている、何か、食べれるものを。そんなこんなで、ボーイ不機嫌になる。無造作に料理をテーブルに置いていく。
若い女性は信じられないくらい足が長く美人で皆一様にそっけなく、若いイケメンは皆一様にクールに気取っていた。いや、決まっていた。うん、カフェ・ブリュ。
地下鉄の通路を通ると、毛布にくるまって寝ている浮浪者の二人組に、”サムライ!サムライ!”と声をかけられる。怖くて急いでその場を通る過ぎる。だが、声は次第に大きくなる。フランス語が後につづく。なんて言っているのか、”オマエはサムライか、”または、”オレはサムライを知っているぞ、”そのどちらかだ。
どういうわけか、その旅行は毎日、曇り空だったような気がする。美術館も行かず、名所にも行かず、買い物もせず、レコード屋にも行かず、ただただ、ぼんやりとやり過ごしていた。
だが、なんとなく、その感じに慣れてきた。やがて不満はなくなった。パリは冷たかった。不愛想だった。なんせ、死んだ魚のような眼をして街を彷徨っていたのだ。何しろ、こっちは鬱のリハビリで来ているのだから。そんな奴にどの街の反応はそんなもんだろうと今にして思わないこともないが。
ようやく、落ち着いてきたのは、滞在5日目くらいからだった。ホテルに近い同じカフェで毎回、食事をとった。朝、昼、晩と通ったこともあったが、ついには親しい関係になることもなく、顔見知りの若いボーイはつねに不愛想だった。最後の夜、少し多めにチップを渡したが、ほんの少し微笑むと、やや、義務的に、そして直ぐにもとのしかめっ面に戻った。
オペラ座の近くにラーメン屋があった。ある晩、行くと、行きの飛行機で見かけた母と娘がラーメンをすすっていた。母親はすっかり疲れきって消沈していた。行きの飛行機の娘とのパリ旅行そのオーラがすっかりと燃え尽きていた。冬の寒さ、言葉の壁、ある意味人種の壁。トイレの壁。パリは萌えているか。女性誌のパリ特集とは違うリアルなパリ。記者が書くことのない不愛想なパリ。”マダム・ミセス”1月号、今月の特集は行って感じた不愛想なパリ特集。ほっておいてほしい大人のあなたの一人旅。
そして、この旅行中、このCDをずっと聴いていた。この作品はパリの地とは何も関係ないけど。だが、根底に滲みだす何かが、共通している。
やがて、この当時のオリジナル盤を買った。どちらが、いい音だなんて、そういう話しではない。
流麗なバラードがどこまでも続く構成。メル・トーメはそれをただただ淡々と歌う。飽くことなくどこまでも果てしなく。センシティブ。世界中どこまでいっても、イッツ・ア・ブルー・ワールド。憂鬱さはあきらめではない、静かなる諦観。やがて、それがやってくる。望むとの望まざるに拘わらず、その落ち着きに包まれる。この世は所詮、どこまで行っても、ブルー・ワールド。23回目の神経衰弱。それを受け入れたところの憂鬱天国。その世界、静観を、メル・トーメはそのビブラートでは優しく包み込む。世界はビブラートを求めている。のか。これぞ、まさしく大人の音楽。動揺の朝と日常の鬱の音楽。やがて、やってくる諦観、落ち着きのために。
”POLKA DOTS AND MOONBEAMS”、はじめトーメとハープの歌いだしがあって、その後、どこか乱れたオーケストレーションが入る。指揮棒が何かをバンバンと叩く音。そして、改めて、トーメが歌いはじめる。これは、演出なのか、ドキュメントなのか。
ジャケットのデザイナー、バート・ゴールドブラッドは夏の海岸の風景をセピア色でコーテイングした。そう、それはもはや、かっての夏。その記憶。それを思い出す季節は、秋、そして今のような冬・・・。
「パリの冬はゆううつだからいい。恋人たちの熱はさめかけ、商人は破産しかけている。追放された国王や、発見されたスパイのためにパリの冬がある・・・」
まさに、その通りだと思う。このエッセイの結末を知らないぼくだが。ぼくは、恐らく、その憂鬱なパリの冬に、どうあれ癒されたのだ。もし、そこが、南の島の楽園、ディズニーランドのようなところであったらどうだっただろうか。ぼくの病はそのまま癒えることはなかっただろうと思う。目覚ましをかけ忘れた朝のいつまでも覚めない夢のように。