いい歳をして会社に行きたくない理由のひとつは。仕事上でのミスをしてしまうことが怖いからだ。
お得意様の名前を間違え大量に印刷する。大事な書類の数字を一桁間違える。部品の品番を間違えて注文する。それが工場に出荷され製品に組み付き、在庫がおかしいことに気づいた時には製品はすでに市場に出荷されている。それが、お客様の安全上の問題にかかわることとなれば事は重大である。
何か、そういう時は予感というものが働く。何か、おかしいな。それで、かっては休みの日に書類やデータを確認しに会社に行ったことが何度かあった。
だが、今、おいそれとは会社には行けないようになってきている。サービス残業などに総務の目が厳しくなっている。タイムカードを押さなくとも、ゲートに打刻されたデータでそうしたことが分ってしまう。だから、時に、眠れぬ夜を過ごす。いい時代なのか、悪い時代なのか。
映画「ブルーノート・レコード ジャズを超えて」を渋谷で観た。三連休の真ん中。満席。だが、あまり若い人の姿は少なかったけど。
ジャズ・ファンならすでに知っていることはエピソードに多々あった。だが、ジャズに夢中になり、ある意味、真剣に聴いてこられた方には、すでに知っていることとはいえ、知っているからこそか、感極まってしまうシーンも多くあるんじゃないかと思う。音楽ドキュメント映画でありながら私は泣きっぱなしだった。
また、ハービー・ハンコックによるフランシス・ウルフの形態模写。ウエイン・ショーターによるマイルス・デイヴィスの声マネは見所のひとつしてあげておきたい。やっぱり、ウエインは耳がいいんだと再確認した次第。
それで、そのマイルスとの思い出をハービー・ハンコックが語る。それに、グッときてどうしょうもなかった。
映画を観ながらメモをとったわけではないので完全ではない、間違った箇所があるかも知れないが大筋で。ここに要約する。
自分がマイルスのバンドにいた頃の、63年か、64年の頃の話しだ。バンドはその頃、表現の極みピークにあった。自分のプレイもそうした時期にあったと思う。
そんな時、私はうっかり違ったコードを弾いてしまった。まったく違うコードをね。あっと、思った。
ふと、マイルスを見ると、彼はそれに少しも動揺することもなく、すぐに曲を立て直した。そればかりか、さらにそれを別の高みへと持ち上げより美しいものにした。
終わって楽屋で、マイルスに怒られるのかと思った。だが、マイルスは言った。
いつもと同じゃ、面白くない・・・。
ハービーは続ける。
私はそのことから、より多くの事を学んだ。
私はこのエピソードから、まずは、マイルスの偉大さを知る。この人の器の大きさを。これは、すべてのリーダーが知るべき、見習うべき、事例なのではないかと。そして、ジャズという音楽が持つ寛大さと底知れぬ豊かさを。
MY FUNNY VALENTINE MILES DAVIS IN CONCERT
確かこのレコード1曲目「MY FUNNY VALENTINE」で、ハービー・ハンコックは曲順を間違って、実は違った曲のイントロを弾いたという話しを聴いたことがある。
もしかしたら、上記の話しはこの件を言っているのではないか。
私はこのレコードが好きで、実はマイルスのレコードのなかで一番好きだったりする。そんで、プロモ盤を張り込んだ。これを聴いて夜中にシミジミするのがいい。
そんな夜が何度もあった。マイファニー野郎という言葉がかってあった。マイルスはこれ、コルトレーンはバラッド。私は紛れもないそのマイファニー野郎である。
それで、私はこのレコードを初めて聴いた時に、その冒頭のマイファニー~のイントロ、それがあのリリカルでチャーミングなレッド・ガーランドのそれを思っていたのが、ハービーのこれはずいぶん違うものだなと思っていたのである。
それで、この話しを聞いた時には大いに納得したものである。
この話しが事実であるなら。ハービーの弾くイントロが終わる。
そして、東尋坊の崖から風に吹かれて暗い海底を見つめるような、失意の底から、むせび泣く、マイルスのトランペットが静かに響き渡る。
その旋律は、もしやの、マイファニー・バレンタイン・・・。
この時、この瞬間、東尋坊の崖から暗い海底を見つめたのは、マイルスではなく、ハービー・ハンコックだっただろう。
やべ、間違えた。
だが、マイルスはびくともしない。その間違ったイントロの風を引き継ぐようにして、曲の髄をさらなる方向から、導き、引き出していく。客席が静寂に包まれるのが分る。マイルスのラッパは、暗い水面に描かれた波紋のように広がる。そして、心の動き、その葛藤を、そのエモーショナルな表現でもってして、徐々にノッテいく。これが凄い。観客がどっと沸く。それに答えて、激しくブローするマイルス。
続く、ジョージ・コールマンのソロはそのマイルスの追憶を引き継ぐように始まる。静かに淡々と、歩んでは立ち止まり、望郷の地、カフェの店の前で昔の恋人の手紙を取り出し、眺めてはまたポケットにしまい再び歩きだす。そんな大人の味わいテナーである。これがウエイン・ショーターの若き才気なら、こうした表現にはならない。
そして、続く、ハービー・ハンコックのピアノ・ソロである。東尋坊の海が夕陽に染まるように、音をキラキラと反射させていく。そして、波の変化によって音はしなやかなうねりをもって、よせては返すを繰り返す。いや、ウットリする。すると、ソロの途中、観客から、溜息が漏れるような歓喜のあと拍手が巻き起こる。
ハービー、立ち直りが早い。もう、イントロを間違って弾いたことなどすっかり忘れている。
もし、この話しがこのレコードならば、ハービーはなんの曲のイントロを弾いたのであろうか。実に興味があるところである。
そして、B面のステラ・バイ・スターライトではマイルスのソロの途中、客席からオーツ!!という雄たけびのような男性の声援が聞こえる。それに、答えるようにマイルスは切れ味の鋭いフレーズを連発する。嗚呼・・、この部分に何度、助けられた夜があったことか。
これが名盤とされるその理由、結果、それが、冒頭、ピアニストの一人が曲を勘違いし間違ったコードを弾いた始まりによるものなのだ。
ジャズという音楽は、予定調和ではない、何が起こるか分からない音楽、間違っても、誤っても、いくらでも、取返しのきく音楽、いや、音楽の枠を超えた世界。そういえば、若い頃読んだ、ナット・ヘントフの「ジャズ・カントリー」にもこんな一説があったと記憶する。“”トランぺッターはわずかなミスを起こした。だが、それはイカしたミスでもあった””
この世界、誤っても許される世界、何度でもやり直すことが可能な世界がジャズの他にあるのだろうか。マジで。
だからこそ、そこに当時多くのミュージシャンが此処に集まってきたのではないか。黒人、白人、人種を問わず、ジャズという場所に、まさに、それはミス、過ちを起こしたものが集まる身を寄せるシエルターのようだ。
そして、その音楽に、多くの人間は救われるのだ。なぜなら、いつの時代、場合でも人間は決して完全ではないからだ。
人類がヒューマンエラーを克服する時代、きっと、その時代はジャズという音楽は不要になっているだろう。
そして、私は、映画を観終わった後、劇場のトイレの洗面台で涙でぐしゃぐしゃになった顔をじゃぶじゃぶと洗ったのだった。