focus stan getz composed by eddie sauter conducted by hershy kay
レコード祭りなんてのをやっていると、地方から出店されたお店のジャズコーナーに必ずあるレコード。まあ、ほとんど日本盤なのだが、米盤のオリジナルもないこともない。それでもすごく安く買える。
ストレイアヘッドなゲッツのジャズ盤を期待して買ったお客さんもしくは、一連のボサノヴァもの一枚と勘違いしたお客さんが、なんだこれ?イマイチだなと売り払ったレコード。ゲッツの人気からして今も中古市場に溢れている。
私も最初、なんだこれだった。いや、さっきまで聴いていたのだが、その感覚はあまり変わらない。
仕事みつけて再就職して、ようやく、千円、二千円のレコードが買えるようになった頃、流れ流れて立川のお店で米オリジナル盤二千円でゲッツ。覚えているのは、国内盤とオリジナル盤がともに二千円だったこと。
ヤッタと、家に帰って早速聴いてみたが、ちんぷんかんぷんだった。変な音楽だな思った。考えすぎなんじゃないかと。編曲家エディ・ソーターが賢すぎるんじゃないかと。
だが、そんな経済状況、レコードそうホイホイ買えず。それで、何度、何度も聴くことになる。
救いだったのはアルバム・カバー、個人的にはジャズ・レコードのなかでいちばんカッコいいんじゃないかと思っている。ここまで抽象的にボカシは入れば、もうゲッツでも誰でも分らんのじゃないか。だが、分る人には分る。シルエットだけで絵になる男。そのオーラがその男、音楽の神に見込まれた男、スタン・ゲッツであることを伝える。オーラとは何か、その表現の極みがここにある。
さらに、マウスピースを加える口元に白く淡い光が、それが一面ブルーの世界にあって、小さく記されたfocusというタイトルの白いロゴとリンクする高等技、センス。
それもそのはず、このカメラマンはピート・ターナーであることをジャズ・ファンはご存じか。
これをレコード棚の一番前に立て掛けるとサイコーに決まる。私がジャズ・バーの店長なら真っ先にやるであろう。このジャケットをカウンターに飾りたいが為にバーを始めてみました。お客さんにそんな受けごたえを用意して。
だが、内容を聞かれたら、ハイ、それまでよ。う~ん、出来としてはまあまあです。そんなところだ。
まず、一曲目の「遅れた、遅れた(I'm Late, I'm Late)」というのはなんというタイトルの付け方なのだろうか。アンデルセン、それよりはルイス・キャロル。あの不思議な国のアリス、それに登場するキャラクターのセリフのようだ。
私はこの曲を何度聴いても、このストリングスが切り立った崖のように感じられる。ストリングス、そのヒモ付きのその優雅さがない。何か、気を急がせられるような、気忙しい気持ちさせられるナンバー。
七つのパートを持つ組曲の四つのパート、その弦楽オーケストラ、それは曲というより、むしろ、童話であり、短編小説。その導入部。
切り立った崖、曲の進行とともにそれが迫ってくる。それを、ゲッツは自身のサキソフォンでぴょんぴょんと飛び越えていく。私はゲームなんて、まるきりやらないし、興味もないのだが。どう考えても、これは、マリオなんとか、だろ。
二曲目「彼女に(her)」には抒情的なゆったりとしたナンバーなのだが、どこか不安な疑心が忍び寄ってくる。杞憂なのか。切り立った崖の後の、愛されているのか、はたまた・・・。これはまるでヒッチコックの”断崖”である。もしや、エディ・ソーターはこの映画を観てはいやしないか。
B面はその趣きを変える。抒情的な、まさに、アンリ・マチスの絵画の「豪奢、静寂、逸楽」
これらの楽曲を思うに、それは何か大きな迷宮のようなものに迷い込んだスタン・ゲッツをイメージしてしまう。その迷宮はそれはデススターのように思える。それは巨大な惑星で動力において銀河を進みつつづける。その惑星でゲッツは自身のサックスを持ってして、縦横無尽、自由自在に飛び回る。切り立っようにそびえるビル群の谷を飛び越えながら。排気口のようなところから潜り込み。内部を彷徨い、ふたたび地上に表れる。それは、まるで高度な計算されたモグラたたきゲームのようなものでもある。だが、ゲッツは絶対捕まらない。動きが俊敏なのだ。予測を遥かに超える。捕まえたと思っても、挑発的にお尻を自身でパンパン叩くと、また、フル・スピードでどこかに消えていく。その音の余韻だけ残して。
それは、やはり、時代が進んだヴァーチャルな感覚なのだ。このゲッツの時代に。これは、当時のリスナー、一部を除いて、この感覚が伝われなかった要因であろうか。
そして、いつも、このレコードを聴き終えると漆黒の宇宙の片隅にでもほうられた気分になる。だが、どうしてか、このレコードを嫌いにはなれない。ここに、絶対的な魅力が存在する。
このレコード、音楽を実際やられている方、ミュージシャン、音楽家たちに言わせると、これはどう録音したのか、という話しに話なるのだけど。
どうやら、先撮りしたオケにゲッツのプレイを後からかぶせて録音したものらしい。その時、ゲッツはイヤフォンをしていたので、自身の演奏を聴けない状態であったという。ありながら、それでも、その音、その世界にピッタリと、瞬時に、それも即興という形で共存する。共振するそのプレイはやはり神がかり的なもの、いや、悪魔的なものが潜んでいる。
これは当時、どのような評価をされたのだろうか。スイング・ジャーナルはどのような採点をつけたのだろうか興味のあるところである。
だが、今回、「スタン・ゲッツ 音楽を生きる」を読んで、この作品がリリースされた直後、音楽的にも評価され、見事な達成として認められたという事実。
以下、評価家リチャード・パーマーの1978年のコメント。
"”今、私を感心させるのは・・・・・エディー・ソーターの作曲の大胆さと、それに対するゲッツの反応の見事さだ。
「フォーカス」はバルトークやストランヴィスキーと同じレベルで心を打つ。それから何年か経過したが、私の意見は寸分も変わらない。そこに、プロコフィエフの名前を付け加えたいと思う以外は・・・・・”"(本文は続く)
そして、さらには、スタン・ゲッツ自身がこのレコードに対し、死の前年にインタビューで語っている言葉を知る。
""ぼくが誇りに思っているレコードは「フォーカス」だ。あれは大変な努力を要した。音楽がまったく書かれていない、ただ、ぼくのキーに楽譜が移調されているだけのストリングスに合わせて、演奏するというのはね。あのレコードを聴くと、ぼくは自分に誇りを覚えるよ。""
この二つの話しから、これはゲッツとって、やはり、マイルストンであったということが認識できる。
そうして、私はこれからも、このレコードを、分らない感覚のまま聴き続けるだろう。宇宙の片隅にでもほうられた気分になりながら。
なぜ、このレコードに魅了されるのか。やはり、それはエディ・ソーターの作り出すところの迷宮だろう。これは何度、このレコードに針をおろしてみてもその全体像が見えないのだ。それだけこの内部は深淵なのだ。
そしてまた、その迷宮とは結局のところ人生のようだ。結局、この人生を3回生きてみてもその全体像は決して姿を現さないと同じことで。
その人生という迷宮のなかで、ゲッツは縦横無尽、アレグレッシブに動き回る。果敢に。まるで、孫悟空のように。
つまりは、スタン・ゲッツとはまたそうしたミュージシャン、音楽家でもあったということである。
”マスター、このレコードどういうの?”
”それですか、実にスタン・ゲッツのマイルストンともいえる作品なんですよ。間違いなく傑作です。聴いてみますか。”
段々と本気でそう思えてきた。