デイヴィッド・ストーン・マーチンは裸足がお好き |
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2019年 03月 03日
紫色の緞帳の影からサックス奏者が舞台にあらわれる。定規を引いて書かれたようなサックス直線と華奢な身体の線はほぼ平行。 大きな会場、ホールのバルコニーその三階席まで人が埋まっている。実際にはサックス奏者に迎える聴衆の拍手が聞こえることだろう。 だが、そのサックス奏者の足元をよく見ると、その足先は、むき出しのまま。素足、裸足なのである。 楽屋にシューズを忘れてきてた。そんなバカな。 デイヴィット・ストーン・マーティンは裸足が好きだ。ウエスト・コースト・ジャズのスタン・ゲッツは裸足、そのサイズ感にそぐわない大きなシューズ。ビリー・ホリデイの10インチ、ベッドに顔をうずめ泣きくずれる裸体の女性、もちろん、裸足。ピサの斜塔とレスター・ヤング、そのレスターと思われるスーツ姿のサックス奏者の足もまた裸足なのである。 彼は、なぜ、こうも裸足にこだわるのだろうか。その裸足は何を意味しているのであろうか。 美の巨人なんたらか、オレは。 家の中では靴を履かずに裸足で生活する我々日本人への伝わりづらいリスペクトか。 デイヴィット・ストーン・マーティンの画風もまた、日本画を連想せずにいられない。 フリップ・フィリップスの10インチのジャケット。このテナー奏者が後ろを振り向けば、それは、"見返り美人"、あの感覚、フィーリングを感じずには入れない。つまりは、このミュージシャンが男性的なトーンで押しまくるタイプではないことを、この意匠は知っている。 日本画と西洋画の違い。難しいことは私には分からないが、その違いは確かにある。ある時期まで、写実的にあろうとした西洋画に対し、日本画はそれに対し、どういうわけか貧欲だ。物事を正確に写しとるその意義のようなものに関してはなはだ希薄だ。そういった需要がなかったのか。そもそも求められていなかったのか。いや、そうしたことはない。まだ見ぬ世界へ、それを見たいと思う気持ちは古今東西、人間の性だろう。 だが、日本画は、写実的なものより、その対象に、描き手の解釈、思想、が入ってくる。歌舞伎役者のその演技上でのオーバーな表情、表現。富嶽百景、“オレが品川で見た波の高さは、いやいや、そんなもんじゃねえよ、“”じゃ、どんくれいでぇ、”手を頭の上にもってきて、”こんくらいはあったよ、なんせ、フジヤマがホントちっぽけに見えら、” 日本画は一部誇張でもある。ディフォルメでもある。江戸の絵師たちは、そこに粋の髄を表現した。これはまた、ジャズの感覚にも似かよっている。粋、すなわちクールである。べらんめえ口調、ブルックリン訛り。ちと、違うか。 さらには、屏風絵、春夏秋冬、季節の移ろい、静物画。 そこにあるのは実際の風景ではなく、それはかって見たことのある風景。見たことがあるかも知れない風景。それは、かって見た風景の記憶の共有なのである。 余白、装飾をいっさい破棄したその表現。そして、静寂。 デイヴィット・ストーン・マーティンのジャケットもまた、静寂に包まれている。サックス奏者はテナーを奏でているが、その音はまったく聞こえてこない。バルコニーのひしめき合う観客の拍手も喚起も。 そこはまったくの無音、サイレンスの世界である。 世の中には、そのジャケットから音楽が聞こえてきそうな絵柄のジャケットというものがある。それを、ただ裏切るような静けさ。 デイヴィット・ストーン・マーティンの作品にひとつに、二人のテナー・マンがテナーを吹きながら空中で、昨今のワイヤー・アクションの映画のようにだ、お互い、顔を見合わせているというものがあるが、これなど、永遠に中に浮かびつづける静止状態にあるといっていい表現である。(jazz at the phiharmonic vol.9) 夢と覚醒のはざま、紫の緞帳は、それまで自分のいた場所、まだ真っ暗な早朝の夢のなかの場所である。そして舞台のそで、現実としてか、このテナー吹きが現れ、音を奏で始める。が、その音は聞こえない。 これは夢か現実なのか。そこは静寂に満ちている。朝? まだ、目覚ましは鳴っていない。ふたたび布団をかぶる。テナー吹きは、何処へ。テナー吹き、いや、この裸足の男は、今、ベッドから這い出してきて、キッチンへと水を飲みに行くところなのではないか? かって経験した実際の出来事、記憶。だが、人にとってのそれは、時の経過とともに、ひどく曖昧なものになっていく。事実と夢のはざまに。 どうも、私は、この針金のように反り返った肢体のサックス奏者の後姿を見かけたような気がしてならない。それは夢なのか、現実なのか、ただ、そこには日本画のように対象を静止する見つめる時の静けさがある。 デイヴィット・ストーン・マーティンのジャケットは静寂に満ちている。音がしない。無音である。 そこから、人はレコードを引き抜いて、そのレコードの音を聴く。まるで、神社の鳥居をくぐるように。日常に、喧噪に、そのリズムに、つかの間の別れを告げ。 やがて、その音に酔っていく・・・。 そして、思い出したように、近くにあったこのジャケットを手にとり眺める。 もう、その時は、このジャケットの細部のことなんか忘れている。そう、このジャケットのサックス吹きが裸足であろうが、なかろうが、そんなことは。 で、レコードが終わる・・・。 そして、それは再び元の場所へと大事にしまわれる。このジャケットのなかに。そう、再び、その静寂のなかにへと。 思えば、本来の音楽はそのレコードの溝のなかにあるべきだろう。だから、どれだけ優れたデザイナーだろうが、そこにある音楽のお株をとること、目立つことは本来の意ではないはず。音が聞こえそうなレコード・ジャケットなぞ、無用である。 そこにある音を最大限の好奇心としての静寂で迎える。 だからして、デイヴィット・ストーン・マーティンのジャケットは、本来のレコードのジャケットとしての役目、意味を知るとともに己の存在を最大限にわきまえていると思うのだ。
by senriyan
| 2019-03-03 22:01
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