JOKI FREUND QUINTET ”JOKI'S SPARKLE” 独JAZZ TONE EP
レコード屋さんのエサ箱で、知らないレコードだなあ~、それもそのはず。これは、もともとジャケットなしのレコードに前持ち主が、自前でジャケットをこしらえたものなのらしい。
当時の雑誌などから切り抜いた記事をコラージュした手製ジャケット。わりとセンス良くまとまっていると思う。けれども、ジャケ表はPHILIPS FONTANAから出たアルベルト・マンゲルスドルフ名義の"A BALL WITH AL"の写真が使われているから紛らわしい。彼のファンだったのだろうか。もともとの盤のリーダー名義はヨキ・フロイント。
だが、そうしたこと以上にこの作品に対する深い愛情が感じられる。
1950年代、当時まだ、ベルリンに東西の壁があった頃、寒風吹きすさぶ冬の夜、ジャズの分かるヒップな若者が夜なべしてしこしことこのジャケットをこさえたのである。
そして、長い年月をえて、なんの因果か、このレコードが東のはずれ、日本のぼくの手元にある。
そんな思いに感化され、たまには手持ちの古いドイツのジャズでも聴いてみようかとあいなったわけである。
本当は、このレコードのみ。
EPだが、なんと33回転。ちょっとした10インチ気分で味わえる。1956年6月30日録音。
ジャズというのは面白いもので、ドイツにはドイツの厳格で重厚な音があり、イタリアのそれは開放的な明るさを持っていて、フランスはそれこそお洒落でフレンチな香りが漂い、イギリスは生真面目でキッチリした性格みたいなものを持つというように、その音には不思議と国民性が反映されるのだ。
わが日本のジャズだって、海外の人間から見れば、聴けば、あーこりや日本のジャズだわいと思えるような国民性をその音にぷんぷんと匂わせていることだろう。昔は外国人に日本の空港に降り立つと、味噌汁の匂いがすると言われたものだったが、今は、スーツに染みついたつゆだくの牛丼の汁の匂いかも知れない。
で、この頃のドイツ・ジャズ、厳格で重厚な音のなかにも、未だオリジナリティーを確立するに至らず、曇天のウエスト・コースト・ジャズと言った趣がある。本家ウエスト・コースト・ジャズのカラットした明るさがないのである。
だが、この盤を改めて聴いてみて、レニー・トリスターノ、いわゆるクール派の強い影響を感じる。そう、ユニゾンにおいて、あの直線的ラインを感じさせ、ヨキ・フロイントやエミール・マンゲルスドルフのプレイに時にリー・コニッツのプレイを彷彿させるようなところがあるのだ。
トリスターノ・スクールと言えば、研ぎ澄まされた刃のようなプレイである。抜き身の真剣勝負である。一見さんお断りである。そうしたものが、ドイツのこの厳格なサウンドのなかにも確かに存在する。
そう、影響を受けながら、やがて研ぎ澄まされた刃は自国のゾーリンゲンのカミソリに代わり、一見さんお断りは職人が作る家具予約三年まちとなったのである。
聴衆の反応をものともしないストイックな媚びない姿勢なんかも大いに共感、影響されたに違いない。さらには、リズム・セクションなどのムダのない合理性。考えるに、レニー・トリスターノの音楽というのは、なかなかドイツ的であると言えると思う。
だが、一般的には、ドイツ・ジャズがオリジナリティーを持ってくるのは60年代以降だとされている。
1945年第二次世界大戦終結後、ドイツは敗戦国としての戦後が始まる。我が日本と同じだ。
何も大それたドイツの歴史観など語ろうとも思わないが、当時、ドイツのジャズ・ミュージシャンたちは何を思っていただろうかなどと考えてみたりする。
この盤のヨキ・フロイント、アルベルト・マンゲルスドルフたちもそうした世代のミュージシャンであるはずだ。
戦時中、政権を掌握していたナチスはジャズを弾圧していた。で、エリントンやジェリー・ロール・モートンのSPコレクションなんか集めていたら、ゲシュタポに没収されてしまう。ハンク・モブレーの1500番台のオリジナルなんて持っていたら、即、連行、尋問、拷問である。(ウソ、時代が違う)
しかし、ドイツ、ジャズというのはすでに国民に浸透しつくされており、国民啓蒙宣伝大臣のゲッペルスは今さらどうにもならんだろうと。取り締まりはゆるい部分もあったらしい。
何しろ、ブルーノート・レコードの創始者 アルフレッド・ライオンがジャズにハマったきっかけが、16歳の頃、ベルリンで見たサム・ウディング&チョコレート・キディーズというアメリカのバンドだったというから。
とはいえ、自国の敵、敵性音楽は敵性音楽である。
そして、戦後。おおぴらに、ジャズができる、アメリカのジャズを、とは、ならんかったように思う。
何しろ、ドイツでは530万人もの多くの犠牲者がでて、ベルリンも、ドレスデンも、瓦礫のやまだったはずだから。
こうして、やがて、戦後ドイツ・ジャズは、曇天のウエスト・コースト・ジャズ、もしくは、トリスターノ派を自国のスタイルに置き換えた形で始まる。

だが、1957年”FREND-MANGELSDORFF-SEXTETT”というEPはそれまでとは何かが違う。
これまでの厳格で重厚な音だが、それに幽玄な感じが立ち込めている。これが、ジャズかと思うような重々しい雰囲気である。
タイトル、A面の”DOMICILE” は住まい、移住という意味か。それを大きな枠で考えれば、国、祖国と言えるのではないか。
そして、思う。その頃のドイツ。戦争も終わったが、我が祖国は西と東に分断されて、何しろそこには壁があり、我が国の将来、未来は一体どういうことになるやら・・・。そうした憂愁の思いがこの曲にはある。
ピアノのペプシ・アウアー(こういう発音か?)の短く入るピアノ・ソロ。これもとにかく印象的なのだ。この人、クラシック・ピアノをそれなりにキッチリやってきた人だろう、このソロにジャズの匂いはまったくない。少なくとも、50年代の米のジャズでこうしたピアノ・ソロを聴く機会はない。
聴衆もまた、これはライブ録音なのでもあるが、曲の終わりの聴衆の反応も、すべてを悟っているかのようかのような品の良い拍手に包まれる。奇声も、口笛も一切無用なのである。
そう、この頃のドイツ・ジャズ、その特異なスタイルとともに、何より、人生の苦みをグッと嚙み締めた後のような、ある気概を感じる。
うん、このEP一枚にドイツ・ジャズのオリジナリティの最初の発芽があると言ったら生意気か。
アルベルト・マンゲルスドルフのルックス改めてみると、気概が服着て歩いているようなイメージである。
そう、ジャズはジャズでやってはいるが、アメリカと同じジャズなんて、絶対にやるもんかという気概に満ち溢れている。
うん、このそうした精神は後のドイツを代表するレーベルECMの精神に受け継がれていると思う。
年末、実家に帰って、改めて聞いた話し、亡き祖父の口癖が、”苦い気持ちをつねに持て”というものだったらしい。
なるほど、年初の最初はこうした一枚からスタートするのも、ご先祖様のお道地味なのであろうか。
話しは違うが、これからの日本も諸外国と多くの場で様々の折衝に入っていくことになる。と思う。
まずは、どうか、つゆだくの牛丼の汁の匂いをぷんぷんと匂わせながら会議に臨んでほしい。