ぼくがコレクションしているレコードはもうすでに半世紀近くたったものであり、ジャケットに痛みがあったり、盤に小キズがあったり、まあ、大なり小なり何らかの欠陥を抱えているものばかりである。
それでいて、安く買えたかというとそうでもない。それなりの骨董価格。プレミア価格、それなりの代金を支払って購入している。
以前は、買ったものが思ったより、キズがあって、チリパチしていたり、ジャケットの端っこが破れていたりすると、くよくよ悩んだり、眠れなくなったりしていた。お店で、返品するなり、交換するなりするまでは心が落ち着かないのだ。
だが、自分でつけてしまったキズはもうどうしょうもない。そう、レコードのキズは心のキズである。
そうなると、売ってしまって、新しい盤を買うまでは、これまた落ち着かない。だが、それがちょっとしたレア盤の場合はそうもいかない。とりあえず、しょうがねぇなぁ、一応もっとくかの話しに落ち着く。で、棚の隅の奥にしまっておく。だが、これが意外と目に付くのである。
なんだ、また、オマエかと。そのレコードにはなんの罪はない。むしろ、”キズつけたのご主人じゃありませんか・・・”、そんな顔をして睨んでいるように見える。哀しそうにも見える。うん、まあ・・・。
それで、これは、もうマニアしかわからないかも知れないが、盤を新しいものに買え直す、うん、これで一安心といきたいところだが、その新しい盤がかってのキズ盤より音質が良いということも限らんということが実はあるのだ。
これはまったく分からない。つまりは、フラット盤とか、ミゾとか、スタンパーとかの条件とは別に、プレスする状態での良し悪しのようなものがあるように思える。うん、何しろ、半世紀も前の外国のそれもじみ~な工場(こうば)の話しだからして。
せっかく買い直ししたのはいいが、良い音で聴けない。ジャケットは綺麗である。うん、大枚はたいたもんね。だが、なんか、美人だが、そっけのない無感情の女性と付き合っているような感じにも思えてくる。
で、棚のすみにおいやったやつが無性に恋しくなる。だが、そういう時に限って出てこない。おかしいなあ、ここに入れといたはずなんだけどな・・・、三十分探す、出て来ない。一時間探す、出て来ない。腰が痛くなってくる。ちくしょう、段々と意地になってくる。夜もふかい、こうなると、レコードの民族大移動である。ワーテルローである。それでも出て来ない。諦めて寝る。
翌日、レコード部屋は燦燦たる状況である。で、探していたレコードは、アーゴ・コーナーのラムゼイ・ルイスの間からひょっこりと顔を出す。オマエどこ行ってたんだよ・・・。
このジョン・アードレイのレコードのジャケットは少しおかしい。そう、前の持ち主であろう、ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディがアードレイの顔にヒゲを描いたのである。
あってはならないことである。コレクターなら買わない。買ってはいけない。盤質はまあまあ、価格はそれなりにといったところである。
ジョン・アードレイのトランペットが良いことはもちろんではある。が、何か、この人、ルックスがミュージシャン、アーテストぽくないのである。チェット・ベイカーの持つカリスマ性とかそいうのとはもうまったくの無縁である。どこか、大江戸線で経済新聞読んでいるアメリカのビジネスマンという感じがイメージから抜けない。そう、鯛焼きの店とか異様に詳しい日本語ペラペラの外人。
で、前の持ち主もそれに似たようなことを思い、ふと、ヒゲを描いてしまった。その気持ちなんとなく分かるような気がする。
そして、ぼくは結局、このレコードを買った。
だって、ぼくが買わなかったら、他の誰がこのレコードを愛おしく思い、可愛がるのだろうか・・・。