ジャズ妄想夜話 第五回 バートン・グリーン 偶然の音楽 |

バートン・グリーンの回想
バートン・グリーンは穏やかな笑みを漏らしていた。
あなたはピアノの下に潜り込んだことはありますか?
はい、音楽の担任教師の足があまりにも綺麗だったもので、ピアノの下で待ち伏せしていたことがありました。
ふふ、面白い方ですな・・・。
ママンが私にピアノを買い与えたのは私が3才の頃です。と同時に音大を出ていたママンから文字どおりの英才教育が始まりました。
バッハ、クープラン、モーツァルト、ベートーべン、シューベルト、バルトーク、サティ。とりわけ、バッハのフーガなどは徹底的におぼえさせられました。
ピアノの教師は三人、あとは音楽理論を教える教師がいて、歴史を教える教師もいます。例えば、バッハが当時時代の支流から取り残されていたポリフォニー音楽にいかに傾倒し研究していたというようなことを学びます。
我家はそんな教師が出たり入ったりして、忙しく一週間が過ぎていきます。週末のレッスンは昼で終わりですが、その後はママンと一緒にレコードを聴いて過ごしました。
そうして、ピアノの腕前はメキメキと上達しました。5歳の時には、自宅のリサイタルに招いた大人たちを驚愕させるまでなったのです。
10才の時ですか、私はある場所に招かれて、ある曲をわずかのミスもなく完璧に弾きこなしました。当然、割れんばかりの拍手がそれに続くものと思っておりました。ところが、拍手はありましたが、それは何と言ったらよいかわかりませんが、何とも味気のない、おざなりの冷めたものに感じました。
私は自分の演奏の出来には満足しておりましたから、何かの間違いではないかと思っておりました。
しかし、その後の演奏会でも結局、私自身が感じた思いは変わることはなかったのです。
私の演奏が完璧であればあるほど、なぜか聴衆は冷めた反応を示す・・・。
私の家ではバッハがそうであったように、禁欲的な生活が求められました。テレビなどというものもそもそも存在しません。だから、それまで私はローン・レンジャーも知らなければルーシー・ショーの存在も知る由がなかったのです。
1956年のある夕方、ママンは1枚のレコードを手にして帰宅すると、コートを脱ぎすてるや、レコードをプレイヤーに乗せました。
それは、”バッハのゴルドベルグ変奏曲”でした。そして、それは、それは、実に、見事なものでした。単にテクニックだけではない、バッハの精神性にふれるような宗教的な光さえ感じました。
ママンはそれをじっと立ったまま聴いていました。
しばらくして、ママンは優しく言いました。”バートン、こっちに来て、同じ曲を弾いてごらん・・・”
私はもちろん、全力でピアノを弾きました。今までのどんなリサイタルや演奏会よりも。
弾き終わって、ピアノに腰かけたまま、ママンの表情をのぞき込みました。
ママンは静かに私に近寄ると、何も言わず、そっと、私の肩に手をおきました。
そのレコードはその年にルイ・アームストロングの新譜を押さえチャートで1位になっていたバッハの”ゴルドベルグ変奏曲”でピアニストは私より5才年上のグレン・グールドだということを私は後に知ったのです。その時、私は18才でした。
私はその後、しばらくピアノをやめて、絵を書いたり、小説を書いたりして過ごしました。
ただ、そんな生活のなかでも音楽はつねに私につきまといました。音楽は私のなかで、私自身が今まで積み上げた修練という石の高さで、それは、壁のようにそびえ立っていました。私は四方、自身が石を積み上げて作った壁に囲まれていたのです。
そのひとつひとつの石はひとつが実に頑強でした。まるで、北アイルランドの古城をばらして石ひとつにしたような。
そんな時に、私は黒人のフリー・ジャズのミュージシャンたちと出会ったのです。
セシル・テイラーのその破壊的なサウンドを聴いた時、私はその壁を自分自身の音楽で壊してしまえないかと考えました。
それからしばらくして、私はニュージャージーで行われた”ジャズ・アート・ミュージック・ソサエティ”で、マリオ・ブラウンやファラオ・サンダースたちと演奏したのです。
彼らの演奏はエネルギッシュでありながら精神的であり、創造的であり、ある意味宗教的ですらありました。彼らのサウンドは混沌のなかよじれあい地下のホールを大蛇のごとくのたうちまわりながら狂気と肉体のはざまをいったりきたりして聴衆のすべてをそこに巻き込もうととしていました。
彼らのそこには壁などなかった。あり得るはずもないのです。
だが、私の目の前には文字通りの壁がそびえていました。
そうした時、私は一人方向性を見失ってピアノを弾いていたのです。
そして、上半身をよじらせ、髪の毛をかきむしり、ピアノ線をじかに手でかき鳴らしたりと、周囲の力に自分をも同化させようと必死にもがいていました。
しかし、目の前の壁は揺らぐこともなくどっかりと聴衆と私の間をふさいでいたのです。
私はこれでもかと、ピアノ台をスティックで叩きました。さらには、ピアノのフタをバタンバタンと閉じたり開いたりして、出来るだけそこに効果のある音をもたらそうとただただ必死になっていました。
英国のロック・バンド、ザ・フーのメンバーが演奏の最後にギターやドラムを壊すという儀式のように、自分もこのピアノを会場の天井までクレーンで吊って落としてみたい欲求に駆られるのです。
しかし、それもかなわない私は半ば衝動的にピアノの下に潜り込んだのです。
そして、その腹を足で蹴りあげている時、私はふとママンとのピアノ練習の日々を思い出しました。
また私はそこに偶然の音楽を聴いたように思いました。
周囲の音にまじり、私が、今ピアノの腹を蹴り上げている音。
偶然の音楽は、そうして、必然の音楽となるのです。
その時、私の前を塞いでいたその壁の存在もいつの間にか消えていたことも。
この頃の私の演奏はESPレーベルの”バートン・グリーン・カルテットで聴くことができます。
あなたが気に入ってくれることを願っています。そして、それがあなたにとっての偶然の音楽となることを。
もちろん、これは米国の前衛ジャズ・ピアニスト バートン・グリーンに関する”なかったかも知れないし、あったかも知れないお話し”


これ、なかなか面白い演奏ですね。 ただ、60年代終わりになると仕事が全くなくなり、渡欧して、その後はアメリカには戻らなかったようです。
渡欧後は暗い陰鬱な音楽をやるようになって、なんだか気の毒な感じです。 せめて、このアルバムを作った頃はこの物語のように
元気だったらどんなにいいか、と願わずにはいられません。
この記事はルネさんのブログの以前の記事をみて書きました。
あ、このレコード持っていると。私も風貌がグレン・グールドに似ているなと思っていました。
渡欧後、BYGだったか、あまりにも風貌が変わりすぎて同じ人物だと気づきませんでした。
なので、聴いたことはなかったのですが、やはり重く暗い音楽なのであろうことは予想できます。
とは言え、この作品も含め興味深いです。