ジャズ妄想夜話 第一回 モードレーベルの謎 |
さらには、そのジャケットはエヴァ・ダイアナという女性によるミュージシャンの肖像画が使われているのだが、そのエヴァ・ダイアナがまた謎なのだ。どれだけ調べてもその情報が出てこない。この女性とはいったいどんな人物なのだろうか?
またあるジャズ先輩はこんなことを言う、モードを聴いていると、ふと、ベツレヘムのレコードを聴いてるような錯覚におちいる。聴き終わった後など何度、モードのレコードをベツレヘムの棚に入れようとしたか。だが、それだけこの二つのレーベルは似てるんだ。まるで双子のように。
これはそんな謎を言及した、”なかったかも知れないし、あったかも知れない” そんなお話し。

1957年春ベツレヘムレコードの宣伝担当ジョン・クインは自宅のレコードコレクションを集めた棚の前で腕組みしながら考え事にふけっていた。何かが足りない、彼はそう呟く。
そびえたつように立ち並ぶ棚には、エリントンやベイシーらの歴史的SP盤、ブルーノートやプレステッジ、リーバーサイド、西のコンテンポラリーやパシフック、そんなジャズの名盤がそれこそレーベルごと固まりになって、ネコの髭も入らぬほど隙間なしぎっしり収まっていた。もちろん、ベツレヘムで出されたレコードもすべてそこに収まっている。彼自身がライナーを担当したアルバムに関してはスペア2枚をそれに足したところで。

街のストアでそんなレコードを買いあさる彼に、ベツレヘムの社長ガス・ウェルディはこう苦言を呈したと言う、オマエさんは一体どこのレコード会社の宣伝マンなんだい?と。

これだけのコレクションを持ってしても、まだ何かが不足している。そう彼は考える。どれだけレコードを集めても、そこには自分自身というものがない、そんなことを思う。では、自分自身が歌手になってレコードを吹き込みリリースするといのはどうだ? そこで、彼はぷっと笑いを漏らす、そんな話しではない、そんなことは分かっている。
もちろん、我社ベツレへムのレコードにはもちろん深い愛情はある。が、それは、やはり、私自身のレーベルではない。
何か、自身の思いが投影された、全てが自分の意志で、そんな自分だけのレーベル、それを自身のコレクションに加えたい。彼はそうはっきりと確信する。
だが、資金はどうする? レコーディングの費用は? ミュージシャンに支払らうギャラは? レコードジャケットを作る費用だってバカにはならない。カメラマン、デザイナー、それにビニール樹脂材だって。
彼は、ベツレヘムレコードの宣伝担当という肩書ではあったが、要はベツレヘムの何でも屋だった。つまりは、そうしたことに使われる費用というのがどれ位になるのか、当時アメリカのレコード業界にいるどんな人間よりも詳しかった。
数週間後、ジョン・クインはモーリー・ヤノフ、チャールズ・ウエイントロープという西海岸でレコードビジネスに関わる人間から新たなレーベル発足の誘いを受ける。彼らは、ジョン・クインのベツレヘムの仕事を高く評価していたのだ。
彼らは口を揃えて言う。クリス・コナーの10インチは素晴らしかった。私たちは今でも大事に持ってますと。
だが、彼らから提示された予算はあまりにも安いものだった。これでは、レーベル発足パーテイのシャンパン代にしかならないとジョン・クインは思う。しかし、彼は何もかも自由にやらせてほしいとの条件付きで新たなレーベルのプロデューサーを引き受ける。そう彼の夢でもある自分だけのレーベルを作ることのできる一世一隅のチャンスに思われたのである。だが、そうした自信は彼にはあった。
まず、彼はベツレヘムの西海岸でのレコーディングで使用していたスタジオを6月から9月までおさえることに成功した。この頃、ベツレヘムレコードは6000番台シリーズに移行され、4月のメル・トーメ、フランシス・フェイのレコードディング以降予定ではしばらくの間、ニューヨーク録音が続くこととなっていた。ジョン・クインはここに目をつけた。どうせ、空いてるスタジオなんでしょう、遊ばせるのがもったないと彼は格安の条件で。
ジョン・クインは、長身で端正な顔立ち、いつも、涼しげなほほ笑みを浮かべていた。そして、レコードビジネス界ではなかなかの社交家として知られていた。些細なパーティでも必ず出席し、そのウイットに富んだジョークは実に多くの人の心をとらえていた。彼はどんな人種とも男女問わず話しができた。そして、彼の話術に誰もが魅了された。彼は言わば天才的な社交家だった。
ミュージシャンでカメラの腕も確かなディブ・ペル、ピアニストでアレンジャーのマーティ・ペイチも、そんな彼の仲間であった。
次に、そのレーベルのアレンジャーに旧友のマーティ・ペイチを誘い込む。さらには、ミュージシャンでカメラマンでもあるディブ・ペルにジャケットのフォトグラファーを打診する為、彼の楽屋を訪れる。
”おいおい、ジョン、オレはこう見えてもミュージシャンなんだぜ、オマエはオレをクラクストンにするつもりかい。オレにはロリンズにカウボーイハット被せるそんな勇気はないぜ”
そう言いながらも彼はベツレヘム同様、ジヤケットのバックカバーのミュージシャンのフォトグラファーを担当することを心良く了承する。
”で、それはそうと、ジョン、そのレーベルにはどんなミュージシャンの名が連ねるんだ”
”うん、まずは、ハービー・ハーパー、彼のトロンボーンには何か世の中の安永を感じる。夜、ネコがすやすやと寝てるうちは大事は起こらない気がするように、そうだろ。それから、リッチー・カミューカ、彼にどうしても、マイ・ワン・オンリー・ラヴを吹かせてみたい、きっと素晴らしいものになるはず。それから、日系のドラマー、ポール・トガワのレコーディングも予定している”
”しかし、まだアメリカ人は真珠湾のことは忘れてない、そんなものが売れると思うのかいジョン?”
ジョン・クインはその涼し気なほほ笑みでこう答える。
”音楽にそんなことは関係ない、ましてや、これはジャズだよ”
6月に入り、新しいレーベルのレコーディングは順調に進んだ。4ヶ月という期間にあらゆるミュージシャンがスタジオを出入りした。録音が押すとスタジオで録音している最中、次のグループがスタジオの外で待機するような状況が続いた。録音を担当していたディトン・ハウは後にこう語った。
”私はあの年の夏、カルフォルニアの青い空なんて一度も拝まなかった。蒸し風呂のようなスタジオでひたすら機器をいじくっていたんだ。もし、今後、モード・レーベルについて書く人間が現れるとするれば、私がそんなことを言っていたとぜひ伝えてほしいと”
ジョン・クインは、妻の為だと言って、フランスからヴォーグ誌を取り寄せていた。が、彼自身も時にそのページをパラパラとめくることがあった。そんな最新流行のモードを身にまとった女性たちのきらびやかな写真は彼の心をいつも和ませた。彼は思う、世界中のどこでもこんな世界が続く限り、戦争など起こり得ないと。
彼は、暴力的なものより、きらびやかなパーテイを愛した。集う女性たち、シャンパン、粋な会話、
さらには、デパートの化粧品売り場の匂い、欧州から輸入されたバックが陳列されたショーウインドウ。
彼は、その新たなレーベルの名前をモード(MODE)とすることにした。
”後は、ジャケットのデザインだけだ” 確信に満ちた表情で彼は呟く。
二日後、ジョン・クインは、サンタモニカピアにいた。その最古級の桟橋には観覧車が見え、ジェットコースターからはけたたましい悲鳴が聞こてくる。遥か遠くの空をカモメが悠々と旋回している。
その一角で、観光客相手に女性が似顔絵を書いている。似顔絵のわりにはあまりディフオルメされてない淡いタッチである。いつも通りわるくないタッチだとジョン・クインは思う。
終わって似顔絵を受け取った中年女性は 、”あら、私ってこんふうかしら、案外、痩せてみえるわね” もちろん、女性は痩せてはいない堂々とした肥満体形である。そしてこう続ける ”あなたとてもお上手ね”
満足気に代金を支払い立ち去る女性の後ろ姿に、似顔絵書きの女性はほほ笑みを浮かべながら、have nice day!と元気よく声を掛ける。
ブロンド、眼は生き生きとして好奇心に溢れ、化粧気はまったくない、ジーンズにチェツクのシャツを羽織っていた。
”いや、久しぶり、エヴァ” 今度はジョン・クインがその似顔絵書きの女性に声を掛ける。
”あら、お久しぶりね。ジョン、良いお天気ね” そう言って、インクで汚れた指で髪をかき上げる。
”あなたは似顔絵書きの私しに似顔絵を頼まずに、会えば、いつも世間話。レコード会社の宣伝マンってヒマなのね。また、華々しい世界のおとぎ話を私に聞かせたくてやって来たっていうわけ”
”いや、今回は違う、似顔絵ではなくて、君にちゃんとした絵を書いてもらいたい。人物の肖像画を、いや正確に言えば、人物たちの・・・”
そう言うと、彼は上着のポケットから数十枚の人物が写った写真を取り出し、粗末な木箱のカウンターに並べた。
”つまりは、この写真の人物を描いてほしい。そう、この写真を見ながら・・・”
エヴァはポカンとしていた。そして、おそるおそる一枚づつ写真を手にとる。
”この人、やけに真面目そう、税務署の人?もしくは保険のセールスマン?”
その一枚は、ディブ・ペレが撮った。ハービー・ハーパーの写真だった。
”この人は、相当なプレイボーイね” それは、コンテ・カンドリの写真だった。
”君ならきっといい絵が描ける” 折りたたみ式のチェアに用心深く腰かけながらジョン・クインは言った。”ギャラはもちろんはずむ”
エヴァは困惑していた。
遠い空ではカモメがキー、キーと鳴いている。
数日後、ジョン・クインの事務所ではエヴァ・ダイアナによって描かれた数枚の肖像画が並べられていた。彼はその出来栄えに満足気に頷いていた。
そして、こう呟く・・・。
”レコード屋でバート・ゴールドブラッドのような天才がデザインしたジャケット脇に並のデザイナーが仕事したレコードが並べられば客は間違いなく見劣りする”
”あんな天才に真っ向から挑んだところでどうなるわけでもない。もし、対抗できるとしたら、それはまったくの無垢な純粋さしかない、そう、この絵のような”


完全なデザインにあたり、彼は、mode recordsのロゴの下に”music of day"と入れることにした。
なぜかは、自分でもよくわからなかった。ただ、あの時、エヴァ・ダイアナが客に向かって言った、
have nice day!がいつまでも記憶に残っていたからか。
こうして、モードレーベルのレコードは全米に発売された。
だが、思ったより、セールスは伸びなかった。それでも、ジョン・クインはあっけらかんと、いつもの涼し気なほほ笑みを浮かべていた。彼は発売されたレコードを関係者や友人、ミュージシャンに配って廻った。自分が描かれたレコードを手渡されたハビー・ハーパーは、”オレって、こんなか?”と表情一つ変えずそうつぶやいた。
ジョン・クインはエヴァ・ダイアナにギャラを支払う為に、サンタモニカピアを訪れた。
手にはその発売されたレコードを持って。
だが、彼女の姿はそこにはなかった。その日、彼はジェットコースターからの子供や女性の悲鳴とカモメの鳴き声をただ聞いて帰った。
それから、しばらくの間、彼はその場所に通い続けた。秋になった。それでも、エヴァはその場所に二度と姿をあらわすことはなかった。
そんな時、秋色の風に混じって、ふと、エヴァ・ダイアナの声が聞こえたような気がした。
”ごめんね、ジョン、あなたは私にチャンスを与えてくれたんだと思うけど、私はこんなようなところで、潮風にあたりながら、観光客相手に話をしながら似顔絵を書いているのが好きなのよ。下手な似顔をね。どんな最新流行のモードよりも、ブランドのシューズよりもね。シャンパンが香るパーティよりも・・・、
街のレコード店で私の描いたジャケットを見たわ、恥ずかしくて顔から火が出るかと思った。私って楽器を描くのがヘタね。このトランペットってなんだか曲がってやしない・・・”

それっきりだった・・・。
それから、モードレコードは資金の関係から経営不振に陥った。あるカタログからビニールの樹脂材を安いものに変えなければならなかった。
ある朝、一人の男性がジョン・クインの事務所を訪れた。手にはデザイン画を携えて・・・、
男性の名をビル・ボックスと言った。
彼は言った、”私はエヴァ・ダイアナから紹介されて来ましたと・・・”
それを聞くなり、ジョン・クインは男性に飛びかかり、両肩をゆすりながら興奮気味に聞いた!
”彼女は今、何処に!”
男性は困惑を隠せない様子で、いや、彼女のことは何も知りません。似顔絵書きをしていると言ってました。サンタモニカピアで会いました。私の絵を見て気に入ってくれたみたいで、私のことを紹介してくれると、それで来ました。あなたが、ジョン・クインさん?・・・”
ジョン・クインのレコード棚は、かねてからの夢であった、自身の思いが投影された、全てが自分の意志で、そんな自分だけのレーベルが、ついにそのコレクションに加わることとなった。モードレーベルのレコードはスペアを含めて3枚づつ棚に収まることとなった。
ある晩、そのモードのレコードを聴いていると気になることがあった。音の底でシャーツという音が始終聴こえる。プレスがたまたま悪いのか? 彼は残りの2枚を同じようにして聴く。残りの2枚も同じ結果だった。
ビニールの樹脂材をケチったことを思い出す。
だが、ベレー帽、あご髭の男のこのジャケットを見ていると、そんなことは許されるような気がした。こんなことにクレームをつけるような神経質な人種はドイツ人だけだろう、日本人なら気が付かないはずだ、すぐに気を取り直して彼はそのサックスの音に酔った。

数年後、ジョン・クインは娘に連れて行かれたママス・アンド・パパスのコンサートで、偶然、エヴァ・ダイアナを見かけたような気がした。
凄い人込みで、両手に飲み物を持ったまま見かけた彼女を探してぐるぐる廻った。
何人もの人間にぶつかった。ジンジャーエールがぶつかったヒゲ面の体格の良い男の胸元を濡らしたが、男はそっぽを向いてまるで気が付かないようだった。
演奏が始まるとその熱気は渦となり、さらに高まっていく・・・。
”パパ、さがしたわよ・・・”
そこに娘がいた。
2016年、5月、大型連休のここ日本で、ぼくはなぜか知らないがモードレーベルに魅せられ、モードレーベルづけの日々を過ごした。聴けば、聴くほど、その謎に魅せられ妄想は膨らんだ。
そして、休みの中、少しづつこの文章を書いた。
ここに書いたことは一部を残してすべて妄想、虚構、ウソの世界である。
当時を知るモードの関係者がこれを読むことはまずないと思うが、もし、これを読んでいやな気持をもたれたとしたら、イカレタ日本人がモードを愛するあまり暴走した、可愛そうなやつと思って許していただきたい。

笑)≪アート・ペッパー・・・そう、「バラード」こそ、このミュージシャンの本質的な感性を表すものなんだ。彼の吹くバラードは・・・すっとひらめいたフレーズが即座に音になって・・・まったく意図的に用意されたようなものでなく、だから・・・バラードの中には、ペッパーという人の本性が全て表れてしまうのだよ≫
以上・・・記憶と僕の勝手な妄想を交えて書いてみました(笑)
そうです、モードはぼくにとってやはり妄想しがいのあるレーベルといえます。リッチー・カミューカのレコードは以前、ジャズ喫茶で聴きました。これをかけると、このレコード何ですかってみんな聞くんだよねとマスターが言っておりました。
ジョン・クインはモードというレーベルそれほどの強気で売るつもりはなかった。いつもそんなふうに感じてしまいます。何か、友人やファンにそっと配りたかったかのような。そんな佇まいを感じてしまうのです。
おお、それから、ジョン・クインそんなことを語っていましたか。このアート・ペッパーの話は実に良い話ですな~。それをあらかじめ用意されたものではなく、とっさのインスピレーションで、だからアート・ペッパーという人そのものの個性が出る。隠そうとしても隠せない。これは、ジャズそのものにも当てはまるような話ですね。この話からも、ジョン・クインという人はジャズ者としてやはり只者ではないというのを感じました。bassclefさん、興味深いお話しどうもです。

今は、2018年3月2日午後10時半です。
2年前にタイムトリップしてます。
今、ベツレヘムを漁って、次第に、モードに手が届いております。
ボビー・トループのMODE盤を聴きながら。
古い記事、手前勝手の妄想にお付き合いいただきありがとうございます。
”今、ベツレヘムを漁って、次第に、モードに手が届いております。”
モーニンさん相当数のレコードと知識をお持ちの方とお見受けします。
こんなブログですがまた除いてみてやってください。